折口信夫生誕の地


「折口という名字は、攝津国西成郡木津村の
百姓の家の通り名とも、
名字ともつかず、のびて来た稱へである。
木津村は今、大阪市南区
(現在更に浪速区)木津となった。
所謂「木津や難波の橋の下」と謡はれた、
鼬(いたち)川という境川一つを隔てゝ、
南区難波、即、元の難波村と続いている」


折口信夫「古代研究」(民俗学篇2)より



鴎公園という、町の一角にあるひっそりとした公園に石碑は立つ。
折口家は生薬と雑貨を営む商家であった。建物は戦災で現存しない。
かれが生まれた明治20年、大阪府木津村という地名であった。
難波、千日前の繁華街から近いが、折口はここを<場末>といった。


ふるさとの町を いとふと思わねば、
人に知られぬ思いのかそけき


大正9年、こう詠んだ折口(釈迢空)は自歌自註で書いている。

「私は大阪の場末に生まれた。
此歌の出来た時分は、立派に町の真中になってゐた。
併しながら昔に変わらないのは、他の都会の人が考えてゐるのとほぼ似た、
故郷びとの薄情・喧騒、さういういろんな悪徳をそなへた、
わづらわしい町の人事である。」


「私は町人の子である。人事に、心を動かされることが頗深い。
若く自然に狎れきつて海山の間の遊行を娯しんだ。
けれども山も海も見る為ではなかつた。
そこに営れるひそかな人生に触れたかつたためらしい。」

折口信夫・少年時代
折口が青年時代通った天王寺中学へのその道筋は、
木津市場筋→広田神社と今宮戎神社との間を抜け→
貧窮街長町裏(浪速区広田町、東関谷町、南北の日東町)
→下寺町→芭蕉堂→増井の清水、大江の清水→
清水坂か愛染坂か口縄坂をあがり→夕陽丘→六万体

あるいは、今宮戎→住吉街道札ノ辻→恵比寿町→
合邦辻閻魔堂→逢坂の切り岸→一心寺→
四天王寺→伶人町→六万体 に至るものと考えられる。

「少年 折口信夫」 画 寅本 夕美子


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