合邦个辻 閻魔堂
「幼い頃の夜の外出の記憶・・・・天王寺と木津との道の間。
唯一つ憑みにした閻魔堂のみあかし。
十数年来、大晦日になると、まざまざと幻影のように浮ぶ。」
晦日夜の あらし
燈(ヒ)煽(アフ)つ 堂の隈。
目にのこりつゝ
現実(ウツツ)なりけむ
折口の生家・木津から、今宮あたりに来ると、
なだらかな坂道<逢坂>がはじまる。
その中途にあるのが、合邦个辻・閻魔堂。
東へ進むと、坂上に有名な一心寺や四天王寺がある。
折口は説経節「しんとく丸」から材を得て大正6年「身毒丸」を書いた。※1
折口学の重要なキィワード<貴種流離譚>の実践ともいうべきこの小説は、
かれが幼くから歩きしたしんできた伝承の道と、
さすらい放浪する人への、オマージュでもあろう。
「身毒丸の、父親は、住吉から出た田楽法師であつた。
けれども、今は居ない。身毒はをりをりその父親に訣れた時の
容子を思い浮かべて見る。身毒はその時九つであつた。
住吉の御田植神事の外は旅まはりで一年中の生計を立てゝ行く
田楽法師の子どもは、よたよたと一人あるきの出来出す頃から、
もう二里三里の遠出をさせられて、九つの年には、父親らの一行と
大和を越えて、伊賀伊勢かけて、田植能の興行に伴われた。」
聖徳太子が建立した四天王寺。
南門前から東、河内の高安への道は、俊徳街道と呼ばれた。
※1俊徳丸 謡曲「弱法師」の主人公。
高安某の子で、讒言によって家を追われ、放浪し盲目となる。
説教浄瑠璃では「しんとく丸」
人形浄瑠璃では「摂州合邦辻」(せっしゅうがっぽうがつじ)
ちなみに身毒(しんとく)とは、中国の「史記」にみられるインドの呼称。