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電子立国最前線
地球環境保全、エコケーブルへの挑戦 (住友電工の熱き闘いとその軌跡に学ぶ)
(1)20世紀から21世紀へ託されるもの
(2)次世代のエコケーブル
(3)文明社会に見る未来像と生活文化衰退の末路
  ◇東海村臨界事故の犠牲者及び西暦2000年問題 (補記)
文 ・ 古川卓也





      (1) 20世紀から21世紀へ託されるもの

  いったいわれわれ人間の、とどまるところを知らない欲望は、近代文明、近代産業、近代科学を生んだ基本構造ではあるけれども、実は進歩と見えているものが知らぬ間に、生けるものへの死滅につながる畏れが普遍化してきていることを、われわれは忍び寄る環境破壊のニュースなどで、すでに大方の誰もがよく認識している。故唐木順三のこの見識は、そのままわたしの見識でもある。今から19年前、わたしは京都の本屋で昭和55年に出版された唐木順三の遺稿『「科学者の社会的責任」についての覚え書』(筑摩書房)を手にして買ったが、その後、この作家の苦悶の影響は、わたし自身の煩悶とも重なり、終生の針路とも折り重なっていったようにも思える。

  昨年の今頃わたしは環境経済学の分野で、J・S・ミルの「社会は個人の複合である」という見地や、ミル自著の『自由論』のなかでミルは「民主主義拡大の懸念として、教育のない多数者が数を利用して少数者の意見を抑圧したりする専制的民主主義に陥ること」を不快とし、統治者被統治者の意志合体による最大多数の最大幸福を主張するベンサムの功利主義論にも辛辣であったミルの存在に、たいへん惹かれていた。19世紀の経済理論としてばかりではなく、ひとすじの鉱脈を現代に与えていると思われたものだ。また彼の提唱する自由論には、フンボルトの究極的調和的発展原理に基づく柔和な環境の多様性も求められている。

  今日の日本は経済大国の一方で、平成大不況のただなかにある。そんな中で個人事業を独立させねばならなかったわたしは、目先の経営学よりも闇雲にグローバルな経済学に固執してしまい、それがかえって、さほど経営収支に深刻になることもなかったが、かと言って、この2年けっして経済的苦境がなかったわけでもない。ミルの経済理論には、机上の論だけでなく、実質の経理も伴っている。リカードの経済学ともいわれるミルの『経済学原理』には、リカードにない富の生産論や分配論もリアルに語られる。
  それはそれとして、いま事業を起こすことは、ジャンルにもよるだろうが、たいていの経営者が経営会議をするようにグラフ戦略に縛られるのに対して、わたしのような個人事業者がいまさらのマクロ経済学を楽しみながら、自分の起業を長期の眼でいま存分に喜んでいるのは、やはり不謹慎なのだろうか。

  道徳の見えて来ない計量経済学の高度なファイナンス理論や物理理論でコンピューターを駆使し、ゲーム理論で見境もなく儲けることよりも、時代遅れの、だが当時は切迫していた歴史に残る古い経済学書に、今あえてひとすじの道徳の光明を見出そうとしているのは、それでもやはり愚かなことなのであろうか。19世紀のイギリス型古典的資本主義原理と20世紀前半の社会主義原理のはざまで、マクロ経済学のケインズは乗数の理論を打ち樹て、その後の貨幣価値理論に基づいた新たな資本主義原則を生んだが、その乗数には少なくとも雇用や生産性といった見える道徳があった。はたして、もうすぐ21世紀を迎えるわれわれ日本の社会は、20世紀でなし得られなかった次のステップで、いったい何を伝え、何を目標とすべきかは考えねばなるまい。

  見渡せば、地球環境はエコロジーの剥がれ落ちた第二の創世紀かもしれない。それが21世紀の紛れもない姿である。しかし、それを取り戻すのが技術である。今日、世界中いろんな分野で、けっして不可能とはいえない技術がいろいろ展開されているのは皆さんもご存知であろう。日本のエレクトロニクス業界においても同じである。
  さて、前置きが長くなってしまったが、ここに住友電工の環境保全に対する企業の熱い戦いがあるので、それをこれから紹介します。

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      (2) 次世代のエコケーブル

  住友電工の産業電線事業部からケーブルのカタログ・資料を頂いたのは、この夏の7月である。その技術資料とホームページから紹介してゆくと、すでにリサイクルを考慮したケーブルの検討は97年9月頃から本格化していた。オーム社の総合電気雑誌「OHM」98年12月号では、住友電工の「エコ電線・ケーブル開発の最前線」と題して「電線エコプロジェクト」の活動が特集として公表されている。それによると、リサイクルを考慮したケーブルの検討は、いよいよ汎用のケーブルまですべて可能であることが、社団法人 電気学会の研究会や日刊工業新聞でも97年当時の暮れにかけて次々に発表されている。年明けて98年2月には、エコロジー&リサイカブルケーブルの開発製品化にまで及び、この年の1月にはすでにエコケーブルの販売実施もさきがけている勢いだった。

  そもそも「
エコケーブル」とは、同社のWebによると「構成材料にエコロジー材料を使用することにより、燃焼時に塩化水素ガスなどの有毒ガス、および煙の発生を抑制して防災性を向上し、さらに焼却時においてもダイオキシンなどの有害物質を発生させず、埋め立てても有害物質が溶出しない電線・ケーブルで、従来の汎用電線・ケーブルの代替として開発したもの」(住友電工ニュースレター1999年4月号)である。
  98年5月の日本経済新聞には、住友電工の「汎用電線に塩ビを使わない」記事が発表されている。このことは当然価格面からいっても大変難しい同社の挑戦なのである。塩ビは確かに廃棄し燃やせば有害物質ではあるけれども、塩ビの優れた特性である加工性・柔軟性・難燃性を保持する代替材料の低コスト開発は、電線エコプロジェクトチームにとって当初からの大変厚い壁であった。現在、エコケーブル製品に若干の柔軟性等の研究課題は今も残るが、基本的な材料特性及びケーブルとしての寿命などは塩ビと同等以上の性能となっている。だが、問題は、いくら売り手のメーカーが環境に良い製品を生産しても、買い手側に環境保全の意識がなければ売れないのである。にもかかわらず、住友電工の決断は、すぐに売れなくても、いや、かりにコスト面から売れにくかったとしても、生産メーカー側に、それを作ってゆくんだという強い社会的責任が常に先行しているということである。高度経済成長時代の売り上げ姿勢は、もはや微塵もみられない。まったく次世代の環境技術を優先して猛進してゆく企業姿勢である。技術=モラル>大量生産の数式なのだ。そして自然な形の需要=生産となるわけだ。

  現状は同社が予測していた以上に、ユーザーのニーズは高く遥かに越えるものであった。98年度の宣伝活動に伴い、その年の上半期では、社団法人 日本電設工業協会主催の '98電設工業展の製品コンクールで、電線エコプロジェクト製品の「エコロジーケーブルシリーズ」が関西電力(株)社長賞を受賞し、また下半期11月には、第46回電気科学技術奨励賞(オーム技術賞)を受賞している。「エコロジー&リサイカブルケーブルの開発ならびに製品化」に対してである。製品は実際に大阪のガーデンシティ西梅田ビルに納入されるなど実績を上げていた。同じ時期98年11月に社団法人 日本電線工業会が電線の環境基準に沿う規格を完成させると、建設省は「環境配慮型官庁施設(グリーン庁舎)計画」に日本電線工業会規格品を全面採用することを、各地方建設局などへ通知した。
  昨年度98年の住友電工は「電線エコプロジェクト」製品の受注だけで、実に10億円を突破したのだった。そして、今年99年4月からは「エコケーブル」を在庫化し、即納体制を強化するまでに至った。同社の環境保全に配慮した技術開発は、今年になってエコケーブルの主軸ばかりではなく、関連製品にも猛烈な勢いで次々に開発され、生産・販売に及んでいる。

  例えば、電子機器用電線「エコワイヤー」、これはケーブルの絶縁材料に鉛化合物を使わず、燃焼時の有害ガスとなるリン化合物を含まないのである。これらはまたUL(米国安全規格認定機関)、CSA(カナダ国家的標準類認定機関)の認定を取得している。その他には、塩素化合物を含まない耐熱・熱収縮チューブ(イラックスチューブやエコチューブ)がある。従来の収縮チューブは一般家電や電子機器製品・自動車などの電子部品、配線保護など、ポリ塩化ビニール製が広く使われてきたが、これを環境配慮型製品に開発した同社は、かなりの広範な分野で環境対策に威力を持つと思われる。さらに、コンデンサやコイルなど電子部品のリード線用として、鉛を含まない、ハンダ付け性に優れたメッキ線「SBPC」を開発。塩素化合物をやはり含まないフラットケーブル「スミカード」、TV高圧電線と、まことに多種多様なのである。
  建設省官庁営繕部の基準類の見直しは、関係省庁や各地方建設局へ指示伝達されて、各地方自治体にも指導されるに至り、今後これらの環境に配慮した電線が、新設や補修で必要と思われる箇所には随時採用される見通しとなっている。

  以上が大体の住友電工「エコケーブル」の経緯であるけれども、一言に「地球環境への影響を低減したエコケーブル」という同社の道のりは、けっして平坦なものではなかったろうし、第三者が安易に語れるものでもない。この手元にある一冊の資料に、それは窺えるのである。本当はここに凝縮され、展開されている実験の、数限りないまでの繰り返しと労苦が、わたしたちの目に見えないところでいかに織りなされていたことか。一つ一つの正確な数値を得るために、いったいどれほどの試験が繰り返されて来たか、わたしたちは知る由もない。試験装置での綿密なデータを得るために、エコマテリアルのエコロジー特性は実に際限のない反復であったと思われる。それを技術のない第三者が、かりそめにも説明しきれるものでもない。マウスを使ったガス有害性試験のデータや、ビニルケーブル(CVV)とエコケーブル(EM-CEE)の製造時における二酸化炭素排出量比較データなど、そのおびただしい厳密な数値には人知れず苛酷な試練にさえ見える。そして何より現実の電線廃棄物処理のゆくえに、同社は心血を注いでいるということである。その一方で、国民が知りたいのは、難しい製品の説明よりも、公害か公害でないか、といった一点に絞られてしまうことなのであろう。

  次回はケーブル先端技術の補足として、この産業廃棄物の思案に暮れるわれわれの社会問題に少しだけ触れて、「電子立国最前線 '99」の第1回目は終わりと致しましょう。

(資料提供: 住友電気工業株式会社 産業電線事業部)

(1999/09/09)

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      (3) 文明社会に見る未来像と生活文化衰退の末路

「電子立国最前線 '99」〜第1回 「地球環境保全、エコケーブルへの挑戦」本編を書き終えてから、すでに3ヶ月が過ぎようとしている。環境問題を補足して、この第1回を終えなければと思いつつ、99年が刻々と終わりに近づくなか、気がつけば、すでに12月になっていた。どうにもならない日本社会の流れの中で、いったい個人としてのわたしに何ができるのか、環境問題はあまりに深くて、日々ただただ茫然自失の状態からいまだに抜け切れない有様である。
  最近の環境問題でやはり愕然とするのは、ついこのあいだ起きたばかりの世界でも稀な前代未聞の東海村臨界事故であろう。日本史上最悪のINES(国際原子力事象評価尺度)レベル4という事故の放射能汚染による環境破壊は言うまでもなく、住民の身体への被曝影響や、そこで暮らしていた市民・県民レベルでの生活被害状況だ。農産物・海産物のイメージダウンは、県民を非情にも「…産」というだけで脅かしている始末だ。心理的経済圧迫は深刻である。県内の産業へも悪いしこりを残してしまった。国の対応の鈍重さが、ますます市民県民の苛立ちに拍車をかけた。
  当の臨界事故を起こした民間企業の、危篤が続いている一作業員のその後の現在の経過はというと、その実態はあまりにも生々しく筆舌に尽くし難い容態のようである(この様子のルポルタージュは「週刊文春」12月9日号に詳しく記載)。これはこの国の杜撰な危機管理の象徴を示したことにもなる。

  だが、話を戻して、そもそもいったい何が環境を保全するかといえば、元をたどれば、人のこころの働きかけであろう。モラルの低下を如実に普段から見かけるのは、例えば、目の前を行く高級車の運転席窓からタバコのポイ捨てが意外とあることだ。もちろんどんな車からでも、この国ではタバコのポイ捨てはよく見かける。お迎えの運転手付き高級車はそのようなことはないだろうが、自己満足型一人ドライバーにはよく見かける光景である。わたしの車の前の高級車がポイ捨てしたら、やはりいい気持ちはしない。中には信号待ちで止まっていると、前の車の運転席側ドアが開いて、道路に痰を吐いてゆく者さえよくいる。わたしはその痰を踏みたくないので、ハンドルをまわして避けて行くのだが、やはり後続車としてはいい気持ちにはなれない。
  こんなちょっとした身近な運転マナーひとつ取っても、この国の国民の環境意識がはっきり見て取れるから、実に前途多難としか言いようがないものかもしれない。車の窓からタバコや空缶やいろんなゴミを捨てる人がいるかぎり、この国では環境がよくなることはないだろう。これがすべてを象徴しているように思われる。相手のことを思いやる心がけ一つで、この国はずいぶん改善される要素はあるのだが、さびしいかぎりである。
  けれども、現に生きているわれわれは、やはり地球が自分だけのものではなく、みんなのものであることを意識しなければならなくなって来た時代にいるのは確かだ。このことを意識できない企業は、最早生き残れないであろう。そして企業だけでなく、一般の大人も子供も、環境保全に意識できない者は、確実に新しい時代から取り残されてゆく人たちとなる。なぜなら、そういう人たちを世界はすでに認めていないからだ。世界の資源と需要に依存している日本社会は、世界と手をつないでしか生きようがないからだ。この国では、そろそろ技術文明への過信はやめて、文化意識を徹底的に整理してみる必要があると思うのだが、いかがなものであろうか。その意識こそが西暦2000年を迎える主流の特徴であって、文化衰退の末路には最早希望はないと覚悟すべきなのである。

  環境問題はあまりに深くて広範すぎる。一人一人のモラルに左右されるだけでなく、本来は技術だけで手に負えるものではないのだ。環境分野での技術は人間に残された、最低限の、唯一の貴重なモラルなのだ。

(1999/12/05)


【補記】 去る12月21日(火)に多臓器不全という症例を下され、臨界事故後、被曝83日目にして亡くなられたJCO社員の大内久さん(享年35歳)のご冥福を心よりお祈りいたします。日本の放射能事故で初めての犠牲者となりました。
  原子力技術をいまだ過信している日本を、本当にはかなく憂えてなりません。絶対に起こしてはならない教科書レベルの臨界事故をたやすく起こしてしまう経済大国・技術大国日本の管理体制とは、いったい何が間違っているのでしょうか。アメリカでさえすでに20年前にプルトニウムには見切りをつけているのに、世界で日本とフランスだけが核燃料サイクルの余剰プルトニウムに期待をかけ、そのフランスでさえもがとっくに使用済み核燃料の再処理や処置に手をこまねき、プルサーマル計画としての高速増殖炉・スーパーフェニックスの事故で断念して手控えていますが、そんななか世界で唯一日本だけがいまだ再々にわたる増殖炉「もんじゅ」事故の繰り返しにもかかわらず、まだプルトニウムに夢を託しているこの日本の無謀な技術過信とは、いったい何なのでしょうか。何を暗示しているのでしょうか。

  それでなくとも、もうすぐ西暦2000年を迎え、いよいよ2000年問題の帰結をわたしたちは覚悟しなければならなくなっています。エレクトロニクス制御されているわたしたちの日常生活が、はたしてどんな結末になるのかは、実際に蓋を開けてみないとわかりません。特にこの一年、脅かされ続けて来た西暦2000年問題に対して、神はいかにわれわれ人間に罰を与え給うか、あるいはひょっとして杞憂にすぎなかったかは、残り1週間が経って、その神の扉はイヤでも開かれるのです。クロックを内在した半導体のチップが、いかなる悪魔に豹変してしまうのかは、現段階でまさに神のみぞ知るということでしょうか。
  事の深刻さは、いつも惨事になってからしか人間は実感しないようです。そして、いつもその時になってからでは遅く、後悔を常としています。取り返しがつかなくなる前に、少しでも危機は未然に防げるものは防ぎ、回避したいものです。幸いにも西暦2000年問題は努力すればするほど、ある程度の危機は回避できます。しかし、怠れば間違いなく、危機は最大化して露呈されるでしょう。年末を迎えるにあたって、念のために今もう一度、再点検して万全を期すように心がけましょう。

(1999/12/24)

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