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第5話


秋のおとずれに思いをはせて (キバナコスモス 2017)

振り返れば、若い頃は今で言うブラック企業でばかり働いていた。若いということはそれだけ純粋であるがゆえに、騙しやすいということにもなる。老獪なのか、ずる賢いのか、弱みを持った足元を突いて忖度する経営者が多かったようだ。情けないくらいにひどい目に遭って来た。毎日が強引な残業漬けで、帰宅時間は毎夜11時以降となって、銭湯にも行けず、ついに破傷風になってしまったこともある。電話でのノルマ営業をする、ある会社の大阪事業部に通勤していた頃は、毎朝5時には起床しないと朝8時の出社に間に合わないほど、自宅の京都と大阪の職場までは遠かったのである。京都の岩倉からバスに乗って三条京阪で降り、三条から四条までは電車、四条からまた乗り継いで阪急電鉄で大阪の梅田まで行き、駅地下街を通り抜けて地上の日進ビルまで歩く。

半年後に京都事業部に配属されて、破傷風になった時は、高熱と足が怖ろしく腫れあがって首のリンパまでズキンズキンとして、体はフラフラの状態で異様なまでに死にかけていた。「今日は体調が悪いので会社を休ませてください。これから病院に行って来ますので」と上司に電話で言ったら、「なにっ、先に出社して来い」と言われ、重たい体を引きずるようにタクシーで出社したら、上司が「おい古川、どんな足なんや、見せてみィ」と言われたので、私は上司の机の上に、ズボンをめくってバレーボールのように腫れ上がった自分の臭くて汚い右足をさらけ出し、乗せて見せた。すると鬼のような上司は「バカタレ!! すぐそこの病院に行って来んか!!」と大声で私に怒鳴った。左手に竹刀を持った上司は右手で鼻をつまみながら、苦虫を噛み潰したような顔を晒していた。私は悪気は無かったのだが、腫れてる足を疑っていた上司が私の足を見せろと言うから、上司の机の上に痛くて臭い汚い足を乗せたまでなのである。

私は竹刀で殴られたことはないが、同期の他の社員たちはよく殴られていた。耳から血も流れていた。次々に辞めてゆく同期仲間も何人かいた。もし私に竹刀がふりかかった時は、やられる前に上司を逆に半殺しにするかもしれない気性も私は持ち合わせていたので、上司も何かうすうす私に殺気のようなものでも感じていたかもしれない。上司の言葉は社員たちに荒っぽかったが、客との契約を取り付けていた私には普通の会話が多かった。早速近所の総合病院に行ったら、今度は医者から治療後に「何で早う来なかったの。危ないところやったでぇ」と怒られてしまった。私が28歳の時だった。この時私が働いていた会社は、大阪京都市内の中小企業の社長たちに電話帳を使って電話をかけまくり、観光リゾートホテルや都市型ホテルのオーナー会員を募る仕事だったが、いつしか私は山口に帰郷したくなって退社し、その会社は数年後だったか、何やらで摘発されて無くなっていた。名古屋本社と大阪京都の営業所で社員は合わせて1200人くらいの規模だったと記憶している。大阪で500人くらい、京都で200人くらい、名古屋で500人くらいだったろうか。今で言うところのブラック企業だったかもしれないが、小説家を目指していた自分には大変人間観察の勉強になったと今でも思っている。

何も好き好んでブラック企業に入社したわけではなく、人材を募集している会社に限って、人があまりしたくないような仕事が待っていただけで、入社して後から気が付くのだ。あの頃は運転免許も無く、これといった技術も無く、まして大学は中退してしまっているわけだから肩書も高卒止まりなわけで、根性と努力が足りなかった私は、京都で風来坊をしているしかなかった。求人先も絞られて知れていた。おまけに人脈のツテも無く、知人はおろか、ひとりぼっちの貧乏スカッピンとして、これでも作家志望なのだとせいぜい自分に見栄張って小説家ヅラをするのが関の山だったろう。失業しては古本を売りに河原町に出掛けていたが、ついパチンコもして元の木阿弥となり、また小銭だけ残して下宿先までバスで帰るというお粗末さだ。それでまた、ふらりと碌でもない仕事をチラシから見つけて働くといった按配だ。「碌でもない仕事」と言えば、その会社には大変失礼だったかもしれないが、案の定、5日しか続かなかった職もあった。

朝から晩まで小皿に入れた染料を手の指先や小さな胡麻摺り棒でかき混ぜるといった仕事だ。京友禅の帯の染付け修行の一貫とはいえ、根性の足りない私は5日でもう限界だった。帯の染色図案の見習いなんだから、毎月の給料はあげられないと言われつつも、5日間じゃバイト料も出ないだろうなとあきらめ、「やめさせていただきます」と私が親方の奥さんに心中を述べると、「あら、ご苦労様だったわねえ。とても残念だわ。今度こそ続くと思ったのにねえ」と言われたような。他にもこれまで新入りがいろいろ辞めていったようだった。帯図案家の亭主に直接は言えなかったようで、すべて奥さんがまわりを仕切っていたような記憶があって、「少ないですけど、これで堪忍ええ」と手渡された封筒の中には、2万円くらい入っていただろうか。私は一銭も無いものとして退社のつもりだったのだが、思わぬ収入を頂いて、つい涙がこぼれてしまった。こんなにやさしい奥さんの元を離れてしまうなんて、私は本当に当時はバカだった。今でも悔いが残っている。私は頂いたその2万円の内、1万円を下宿代の家賃に充てた。

染色図案のその帯屋は老舗だったのか、図案家の弟子職人さんが5人くらいいたようだ。その内の1人がこの度独立することになったので、先斗町の料亭でお祝いをします、と、めでたい日が私の入社日の3日後くらいだったか催されたことがあり、座敷でみんなと料理を食べた思い出もある。次々に出て来る逸品料理に舌鼓を打ったと思う。私の知らない珍しい料理だったような気がする。独立を果たした職人さんは10年そこの帯屋さんに勤めていたようだった。石の上にも3年どころか、10年とは、私にはとても想像のつかない帯の世界であった。かえすがえす悔いと愁いが残る5日間だった。世の中には「碌でもない仕事」だと一概には言えないことを身をもって知った。自分こそ最も碌でもない軽い腰の持ち主だったのだ。仕事とは汗水垂らして稼ぐことだった。

( 山口県山陽小野田市埴生 季節体験農場「花の海」の黄花コスモス畑  2017年9月24日撮影)
文・古川卓也
(2017/10/10)
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