素浪人文士録 2006年冬ホーム


  荒川静香 公式サイト


トリノ 冬季オリンピック 2006 祝・荒川静香さんメモリアル



【荒川静香選手補記】  荒川静香選手のインタビューを拝見していると、彼女の聡明さと律々しさが特に際立ってみえる。聡明さと律々しさが目立つという点では、男子金メダリストのプルシェンコも同じである。荒川選手には演技技術だけでなく、あらゆる葛藤に向かって打ち勝って来た王者の顔をしている。よほど苦しい修羅場を克服して来たような、強靭な精神力に支えられているようにもみえる。「ただスケートが好きだから」といったようなものではなく、スケートが好きだけで、ここまでなれるものではない。誰も知らないような苦闘の日々も数多くあるに違いない。荒川選手が小坂憲次文部科学大臣の所へトリノ五輪の報告の挨拶をしに行った時は、彼女の深い孤独が可哀相なほど如実に表れていた。彼女の基礎をつくりあげて来た宮城のスケート場が本年閉鎖に決まった問題だけでなく、彼女の実力を、コーエンとスルツカヤの2人がコケてくれたおかげで1位になれたと言った小坂大臣の言葉には、思わず荒川選手の顔に何とも苦渋に充ちた表情が一瞬漂っていたわけだが、その意味を今も小坂大臣には理解できないだろうから、ここでわたしなりに説明しておく。

もし2人がコケなかったら、荒川選手は3位にでもなっていたとでも言いたいのだろうか。2人がコケなかったら荒川選手の評価はライバル2人よりも低いとでも言いたいのだろうか。あるいは、ライバル2人が是非コケてくれて荒川選手の金を確実にしたかった、という愛国心の思いからふっと軽く言っただけのことなのか。小坂大臣の言葉はこうだ。「人の不幸を喜んじゃいけないが、ロシア選手がコケた時は喜びましたね」となるが、確かにコケてくれたことは日本人感情としてもごく自然な気持ちだったかもしれない。だが、競技者の荒川選手の立場からすれば、そんなコケたことで1位になったと言われることがどんなに屈辱的な言葉であるか、彼女には大変失礼な言動となる。それを当人の面前で言うのは、まるで正々堂々と勝ったわけではないような物の言い方ともなるし、金メダルの価値を貶める評価ともなる。荒川選手のスケート人生は、そんな低級なものではないことが日々明らかに報道され続けているが、小坂大臣は荒川選手の血と汗と涙の結晶であるスケート靴の垢でも煎じて飲んで出直して来るべし。

今回の荒川選手の目玉は、何と言っても演技全体の優美さにある。フリーの技術点の高い得点としては、演技後半で見せた技術点なしの美しいイナバウアーから続く「3回転サルコー/2回転トーループ/2回転ループ」のコンビネーションが8.57という最も高い評価点を得ている。Y字形スパイラルで手を放して滑るところも特徴的な個性を得ている。本来のスルツカヤとコーエンが出来る技術ポイントの演技項目を比較するならば、荒川にはすべてが出来ているわけで両者に何ら引けを取らない。それどころか、品格の高い滑る優雅さまで荒川には加味されているのだ。あのまばゆいまでのなめらかな姿態のあでやかさと優美さには、世界の観衆が思わず釘付けとなったのではなかろうか。こんなにもフィギュアスケートが華麗で人に感動を与えるものなのか、多くの人々が再認識したことだろう。小さな子供が観ても、誰が観ても、その美しさに惹かれたであろう。高得点だけが競技ではない、彼女自身の望むところの「最高の演技」にして最高の舞台で舞うように滑れた荒川選手の今回のトリノオリンピックでの活躍は、日本のまったく新しい次元のフィギュアスケート界の大きな史上初の快挙だけでなく、閉塞がちな日本のスケートスポーツ施設環境を問う政治責任へも発展して来たのはいいことでもある。税金の無駄遣いをなくし、国民にもっと夢を持たせるべきであろう。荒川静香選手の夢は、最高の演技をアイスショーなどで多くの人達に観てもらいたいとのことで、一緒に楽しい時間を共有して欲しい、という姿勢は、本当に人間としても立派で、頭の下がる思いがする。そんな荒川静香は金メダリストとして、まさに今最もふさわしい選手なのである。

(「素浪人文士録」より  2006/03/06)

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トリノオリンピックが終ってしまった。フィギュアスケート女子シングルで、アジアの舞姫が、世界一となった。日本の荒川静香が世界で最も美しい舞姫として輝いた。華麗で優雅なすべりを堂々と見せてくれた。ショートプログラム、フリー、エキシビションは世界中に深い感動を与えてくれたのではなかろうか。氷上の舞姫が演ずるのは、プッチーニの遺作歌劇『トゥーランドット』。冷酷な中国の王女トゥーランドット姫と、ダッタンの元国王で放浪の身であるティムール、その息子である王子カラフは、北京の広場で美貌のトゥーランドット姫に一目惚れしてしまう物語だ。ティムールに仕える女奴隷リューは、そんなカラフの恋の情熱に翻弄されて、最後は自らの命を短剣で刺し自殺してしまう過酷な歌劇だ。

トゥーランドット姫の花婿となるには、王家の血筋をひいた者で、姫が与える3つの謎解きをしなければならない。もし、その謎解きに答えられなかった場合は、斬首の刑に処せられると布告。リューはカラフをそんな残忍な刑に遭わせないために、アリア「王子様お聞きください」を歌うけれども、カラフはアリア「泣くなリュー」を歌って、その謎解きへ挑むことに。これが第一幕。そして第二幕では、トゥーランドット姫がアリア「この宮殿では」を歌って3つの謎を与えることに。しかし、カラフはすべての謎を解いてしまう。にもかかわらず、冷淡な姫は彼の妻となることを拒む。そこでカラフは姫に、夜明けまでに私が一体誰なのか名前が判ったら、あなたに命を捧げましょう、と言うのだ。これが第二幕。

そして、いよいよ第三幕は始まる。トゥーランドット姫はこの見知らぬ王子の名前を夜明けまでに判るよう探させて、誰も寝てはならぬと命ずる。カラフはアリア「誰も寝てはならぬ」を歌う。そんなカラフのそばにいたティムール元国王と召使いリューを怪しく思った官吏は、白状するようにこの二人に拷問を与えることに。だが、二人は口を割らず、リューはトゥーランドット姫の前でアリア「氷のように冷たいあなた」を歌って、哀れにも短剣で自害してしまう。この「リューの死」の場面を作曲したところで、プッチーニは死んでいる。アルファーノが後にこのオペラを完成することに。女奴隷リューの死をプッチーニはどんな想いで描いていたのだろうか。人徳の篤いリューと、残酷にして冷酷無比の気高い王女トゥーランドット姫の対比は、実にユニークなオペラともなっている。北京の宮殿と大広場を背景に、壮大な管弦楽と大合唱に包まれる歌劇『トゥーランドット』は、プッチーニ畢生の大作として確立されている。

舞台では死んでしまったリューを運び出し、そしてオペラは続く。群集も去り、舞台ではひっそりと冷酷な姫とカラフが居残る。カラフはなおも恋に溺れた勢いでトゥーランドット姫に近づき、ついに姫のその唇に自らの唇を重ねてしまう。姫の唇が奪われ、カラフの接吻により突然彼女は涙ぐんでゆく。初めて人の愛に目覚めたトゥーランドット姫に、カラフは自分がティムール王の王子であることを告白する。そして、宮殿前の広場で姫は見知らぬ若者の名前を勝ち誇っように叫ぶのだ。「その人の名は愛」であると。すると舞台の周囲から歓喜の祝福と大合唱に包まれることに。壮大なオペラは大きな歓声のなか、やがて幕は降りてゆく。そんなおよそ2時間にわたる歌劇『トゥーランドット』の余韻を、わずか4分余りのフィギュアスケートに託し、壮大なオペラ音楽『トゥーランドット』を取り入れて、見事に銀盤の舞いをすべり終えた荒川静香は、氷上の舞いを何のミスもなく結集させて堂々と偉業を成し遂げていた。ここまで美しい日本人選手の優雅なフリー演技は、わたしはいまだ見たことがない。未明から早朝のTV中継で、解説の佐藤有香さんが「空気をしなやかにした」という言葉が、今も実に印象的に耳に残る。まさにそんなあでやかな華麗な荒川静香選手の演技であった。テクニカルエレメンツもプログラムコンポーネンツも最高の得点で輝いていた。

フィギュアスケートはお金のかかるスポーツだと言われる。世界の貧困な民衆の眼には贅沢なオリンピックと映るだろう。自分が生まれて来た国によって、その人の人生も左右される。世界には戦火しか知らない子供たちもいるだろう。レジスタンスをテロと勝手に名付けられ、宗派の違いによって殺戮と憎悪と復讐を神にさえ委ねてしまう民族の教育は、確かに空恐ろしい不幸なことといえる。誰のせいにしたくはない。人間は誰もがそれぞれに運命を背負って生まれて来ている。わたしは言いたい。荒川静香選手が一スポーツ競技の葛藤のなかで、今回成し遂げてくれた金メダルの功績は、その彼女の類い稀な才能だけでなく、現在も彼女自身がこだわり続けている「勝敗よりも心に残る演技」「人に魅せられるような演技」というものに、わたしは素直に拍手喝采したい。親からもらった43万円もするダイヤモンドのピアスを付けて演技した荒川静香であるが、トゥーランドット姫の王女を物語る壮大なオペラには、最低そのくらいの宝飾も必要だろう。荒川静香自身が世界一の銀盤の舞姫として女王となったのだから、そのピアスに何ら遜色はあるまい。瞳の澄みきった彼女の眼差しは、美人でありながら純粋にして人間讃歌の証しといえる。身分を超えて世界中が彼女の舞いを観れば、きっと誰もが感動の涙を流すことだろう。ここまで日本のフィギュアスケートを高めてくれた彼女の偉業に、われわれ日本人は世界に向けて大いに誇りを持つべきであろう。

(「素浪人文士録」より  2006/03/02)

文・ 古川卓也

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