歴史小説『曙光』(前編)石仏論考ホーム

歴史小説  曙光     日本古代史、天平時代の仏教史ロマン



文・古川卓也
          後編 (四) (五) (六)

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(後編)

         (四)

  天平16年(744)冬10月下旬、長門国厚狭郡厚狭郷の僻村に聖観世音菩薩の石仏が、大唐国龍門の石工である林永邱らの手によって開鑿されはじめたとき、世の中は天皇の彷徨遷都もあって、暗鬱と紊乱に陥ったままであった。
  筑紫の将軍物部広宗は、天平12年(740)に起きた大宰少弐藤原広嗣の叛乱に巻き込まれて以来、ことごとく疲弊を来していた。数万人の討伐合戦に膨らみ、国内それも西国諸国はこれまでにないほど騒擾(そうじょう)を窮めたのである。そして天平14年(742)正月には、ついに大宰府を廃止閉鎖され、物部広宗は秦光成と一緒にいったん周防国の玖珂郡の地に身をひそめていた。
  さらに、翌年の10月には、天皇の詔があって毘盧舎那の大仏金銅像を、光明皇后との遺児基皇子(もといのみこ)の菩提を弔った金鐘寺において発願(ほつがん)され、ここを国分寺の総本山にされたばかりであった。

  その年、つまり天平16年、都はいまだ平城京にあらず難波宮において執政が行われていた。そんな暗澹たる月日が流れてゆくなかで、10月の初旬に大安寺の律師道慈が古稀(こき)を迎えたばかりで惜しくも遷化(せんげ)したのである。
  道慈の訃報を知った石上朝臣乙麻呂は、先月西海道巡察使の職を命ぜられたために、筑紫において聞かされたが、すぐには上京することはできなかった。それでなくとも、天平11年の久米若売を奸した罪で土佐国配流の身の上が、つい昨年の春まで続いていたのだ。やっと赦されて、天平15年5月に従四位上を賜ったのである。そして、この年の天平16年9月に西海道巡察使を賜ったのだった。
  土佐配流中の乙麻呂卿は、漢詩集『悲藻』(かんびそう)2巻を自作して編んでいた。次はその中の一首である。「南荒に飄寓し、京に在す故友に贈る」と題がつけてあった。

   遼  夐  遊  千  里りょうけいせんりにあそび    徘  徊  惜  寸  心はいかいすんしんをおしむ
   風  前  蘭  送  馥ふうぜんらんかをおくり    月  後  桂  舒  陰げつごかつらかげをのぶ
   斜  鴈  凌  雲  響しゃがんくもをしのぎてとよもし    軽  蝉  抱  樹  吟けいせんきをむだきてなく
   相  思  知  別  慟そうししりぬわかれのかなしびを    徒  弄  白  雲  琴いたずらにもてあそぶはくうんのこと

  純粋に仏法の道を歩んだ道慈の遷化は、乙麻呂卿にとって、腐敗僧を多く知っているがゆえに、やはりここ最近にない衝撃で、胸にずしりと重く大きく応えた。
  政治と妥協しなかった高僧の死は、仏法の崇高さをあらためて認識させてくれたのである。そして、その涅槃への往生は、直接に当人の遺志でもあった石仏造立という永生への希求を果たす契機ともなったのだ。乱れた俗世間というよりは、穢土へのすなわち慈悲を道慈は願望して、天寿を全うしたのだった。

(2001/09/28)
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  石上乙麻呂は物部広宗に道慈の遺志を伝え、広宗はただちに高僧の冥福を祈って、秦光成に石仏造立を要請した。林永邱とその弟子6人ばかりが、この事業にさっそく着手することになったのである。広宗は石仏を本尊とするこの寺の伽藍造営に、全力をあげることにした。
  翌春の2月晦(つごもり)に、大雪の積雪があって、石仏寺院の造営工事はしばらく中止となり難渋した。連日の猛吹雪と風で、長門の海も荒れに荒れていた。松の生えた砂浜には、濛々と雪煙が立つほどだった。
  海際にそばだった山の巓(いただき)ちかくに、本尊の聖観音石仏は刻まれつつあった。祭祀の山だけあって、巨岩がいくつも山肌から剥き出しており、さほどに珍しい山容ではなかったが、海を隔てた向かい側には、晴れた霞のない日には筑紫の峰々がまぢかに見える山である。

  春の淡雪がまだ散らついていたある日の午後、林永邱が石仏の櫓(やぐら)にひとり登って、石面の奥に隠れている聖観音の顔をあれこれ透視していると、ふっと何処からともなく声が聞えた。赤い眼の林永邱は、思わずハッとなって身を竦(すく)めた。
  静寂な樹林に囲まれていたので、その澄んだ声は確かに人の声であった。この日は自分の弟子も、大工も、他の者も誰もいなかったのである。
  後ろを振り向くと、山斜面に生えた落葉樹の枝に、白い大きな鷹(たか)が鋭い眼差しでこちらをじっと視ていた。
「あっ」
  と林永邱は声を立て、もう少しのところで鏨(たがね)を下に落としそうになった。白い鷹は身動き一つしなかった。
  この時、人の声がまた聞えた。今度は櫓の下の方からだった。林永邱は板で組んだ足場に注意しながら、櫓の下を覗いた。よく見ると、人が一人佇んでこちらを見上げている。何やら呼んでいるが、若い娘の声のようだった。林永邱は大きな声で怒鳴りつけるように、
「何か用か?」
  と野太い返事をした。
  娘は下から哮(たけ)るように言った。
「お前に訊きたいことがある。下へ降りて来てくれ」
「いま、何て言った?」
  林永邱は娘が命令するように言葉を使ったので、自分の耳を疑った。
「お前と話しがしたい。下へ降りてくれ」
「……」
  林永邱は黙り込んで、奇異な感触にとらわれた。空耳にしては、人が一人、下で佇んでいる。それによく見ると、およそ賤民の娘らしからぬ衣類を纏っており、言葉遣いそれ自体が何やら高貴である。

  やむなく林永邱は手を休めて、櫓から下へ降りることにした。そして、降りる際にふと先程みた樹上の白い鷹を思い出し、松柏樹の木の間から突き出た太い枯枝を見渡して捜したが、白い鷹の姿はすでに見えなかった。淡雪の散らつく木ぬれの葉音が、ときおり微かに颯々(さつさつ)とするばかりだった。
  娘と思った声の主は、なんと眩(まばゆ)いばかりの若い学生(がくしょう)風の優婆塞(うばそく)で、ひどく端整な面立ちをしていた。
「お前は、大唐国の工人だそうだな。大唐のどこだ?」
  若い優婆塞は女人のような澄んだ声で、林永邱に尋ねた。赤い眼玉の林永邱は、太い首をぬっと突き出して、相手を睨みつけた。そして、顔と眼玉をごろりと傾けると、美しい容貌をした優婆塞の肩をがっしりと捕まえた。

(2001/10/12)
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「何者か知らぬが、俺はずっとお前が現われるのを待っていた。お前も、この俺を待っていたような気がする。どうだ、違うか?」
「……」
「お前はこのまま黙って、俺に服従しろ」
  林永邱は赤い眼玉をぎょろつかせながら、無体なことを平気で口にした。すると、
「お前は気違いか? 気の毒な奴だ。しかし、いいだろう。狂人を救うのも、仏の道だからな。で、どうお前に服従すればいいのだ。もっとも、お前の魂胆は初めから分かっている。俺の顔を石に刻みたいのであろう」と優婆塞は言った。
「そうだ」と林永邱は乱杙歯(らんぐいば)を剥き出して答えた。
「大唐の何処からやって来た? 沙州か?」
  と美しい若者は哀れげに眉根を寄せて、やさしく訊いた。
「洛陽だ。腕は龍門の千仏洞で鍛えた。だから、安心しろ」と林永邱は自信たっぷりに答えた。そして、
「お前が来るのを、永いあいだ俺は待っていた。日本へ渡って来た時から、この日を待ち望んでいたのだ。これも運命と思って、諦めろ」と言った。
「どうやら、逃げられそうにないな。こんな俺でよかったら、刻めばよい。お前の自由だ。それにしても、とんだ狂人に出会ったものだ。気の毒な奴だ」
「あっははは……」
  金剛力士像のような林永邱は、大口をあけて哄笑した。

  物部広宗の騎馬隊が、長門国厚狭郡厚狭郷の石仏伽藍造営の進行状況を見に訪ねて来たのは、それから数ヶ月後の雨季に入って間もない頃のことである。広宗の部隊に扈従(こしょう)している秦光成は、この5月に都が平城京に復帰し天皇が還幸されたために、6月になっても都にとどまっていた。
  山に登った広宗は、山斜面の樹陰から垣間見える聖観音石仏のえも言われぬ美しい愁い顔を見て、しばらく茫然となって立ち竦んだ。巨石に刻み込まれていることが、すでに神秘的であり、神聖な威圧感をごく自然に与えていた。何やら身震いがするほど妖しげで、高潔な気品が漂っている……。
  生前、晩年の道慈は、光明皇后の腹心となって権力と策謀に駆けずりまわりながら身を堕した玄ムのような、うわべばかりの政僧の栄誉をひどく嫌って恥じていたが、いざ道慈が示寂して僧綱(そうごう)の地位から解放されてみると、黄泉(よみ)の世界はまことに安住の世界やも知れぬであろう、と物部広宗は故人を偲んだ。一人の沙門の遺志が、こうして長門の僻陬の地であっても着実に石仏造立が成って来ると、それなりの験(げん)がやはり顔の表情にも憑依するようだった。荘重な一つの意志が、霧雨のたちこめる樹林のなかで、何より森厳である。
  この日、石を刻む音はしなかった。山に籠もりきりの林永邱は、別の巨石の平らな上で霧雨に濡れながら、じっと休んでいた。下から広宗が声をかけても、何やら瞑想に耽っているようで返事がなかった。偏袒右肩(へんたんうけん)の姿で結跏趺坐(けっかふざ)を組んでいる。苔むした巨石は霧雨に濡れて、あおあおとしていた。

(2001/10/23)
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「おい。そこで何をしている?」
  物部広宗は下から声をかけた。
  林永邱はそ知らぬ顔で瞑目していたが、どこかで聞き覚えのある声だったので、目を半眼にして下を見た。
「これは、物部殿」
  林永邱は思わず目をカッと見開いた。赤い眼玉がまるで飛び出しそうなほどだった。そして、鋭い眼光は鷲のようである。
「いつ、完成しておったのだ?」
  広宗は林永邱を見上げたまま訊いた。
「完成? まだ、何も出来ておりませぬ」
  赤い眼玉をぎょろつかせながら、片言の日本語で林永邱は答えた。
「しかし、見事な顔ではないか。まだ、あれでは物足らぬというのか?」
「何も出来ておりませぬ」
「おかしな奴だ」
  と言って、物部広宗は美しい顔が彫られている巨石の方へ歩み寄っていった。櫓のかかった本尊石には、弟子らしい者が5、6人ほど鳴りをひそめて、足場に腰を据えたままだった。まるで羅漢のような連中だった。体格や形相が何やら獣じみた雰囲気である。聖観音像の愁いを含んだ優しい顔だけが、ひどく繊細な気韻を漂わせていた。
  この夏四月頃から、やたらに畿内から美濃にかけて地震や火事が頻発しているが、広宗は聖観音を拝しながら、ふと道や秦光成らの消息が案ぜられた。秦光成は造宮輔従四位下を賜っている実兄の秦嶋麻呂と一緒に、恭仁宮(くにのみや)にいるはずだった。5月の上旬に恭仁宮に車駕がみえるというので、恭仁宮の掃除を命ぜられていた秦嶋麻呂が、弟の光成を呼んで手伝わせていたのである。

  都をはじめとする畿内の地震は、6月になってもおさまりそうになかったので、聖武天皇は左衛士督従四位下佐伯宿禰浄麻呂を伊勢の太神宮に遣して、幣帛(みてぐら)を奉納させた。平城宮内はもちろん京内の諸寺では、たびたび大般若経や最勝王経が誦まれたが、やはり地震は止まなかった。微震はその年いっぱいまで隔日で続いた。
  その天地異変を怖れてか、冬11月に光明皇后の寵僧玄ムが、筑紫の観世音寺へ流され、12月には恭仁宮の兵器が平城宮へ搬び込まれた。何やら不穏な雲行きが連綿と続くなかで、長門国での石仏造立だけが着実に進捗してゆくようだった。戦闘に疲れきっている物部広宗にとって、石に刻まれた仏像ほど高貴なものはなかった。永劫なる生命の証しが、赫奕(かくやく)と輝きはじめているように見えた。
  白い麻の軍服に、首にかかった青縞の瑪瑙(めのう)らしい勾玉(まがたま)の飾りがよく似合っている広宗は、鎧と冑をはずしているので、髪は美豆良(みずら)に結ってある。腰には金細工が施された太刀(たち)を佩き、太刀の柄(つか)には金の葡萄唐草が紋様になっており、そこへ微細な赤と緑の玉石が葡萄の房となって、ぎっしりと鏤(ちりば)めてあった。

(2001/11/02)
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  物部広宗が再び観音石仏を拝したのは、あくる年の天平18年(746)春で、石仏は半肉彫りの状態でほぼ完成にちかかった。伽藍は思いのほか捗っておらず、大工も人夫もみんな都の東大寺造営のために上京して、駆り出されて不在だった。残る正丁は銅山で銅の掘り出しに駆り立てられて、まったくいなかった。東大寺の大仏鋳造のためである。銅を産する長門国と周防国は鋳銭司が設置されたように、銅の調(みつき)に追われていたので、まことに不運だった。
  林永邱と彼の弟子たちだけに、広宗は居合わせたのである。広宗は石仏を拝しながら、ふと『維摩経』のなかの言葉を思い出した。それは「煩悩を断ぜずして、涅槃に入る」という言葉である。
  泥の中から蓮の花が開くように、人間とて煩悩の中に悟りを開くことができるのだ。それが大乗仏教の訓えでなければならなかった。狭い、型に嵌まった禁欲の仏教、すなわち小乗とはまるで違った自由の世界である。一切は空しい、であるがゆえに、人間は透脱自在、つまり自由なのだ。小乗仏教を空の論理で否定し、現世肯定の思想すなわち大乗仏教を大成した龍樹(りゅうじゅ)について、道慈はよく広宗に話してくれたものである。

  いつか石上乙麻呂卿と道慈と、大安寺において夜更けまで鼎談した日のことが、物部広宗は懐かしく思われた。暑い夏の盛りの日や、錦繍の秋の日、雪のこんもりと積もった冬の日などが、懐かしく回想された……。
  相即相入そうそくそうにゅう融通無礙ゆうづうむげの世界こそ、聖武天皇の求法(ぐほう)される壮大な華厳世界でもあるのだ。物部広宗は、ぽつねんと聖観音石仏を見上げた。大唐国からわざわざ日本へ渡海して、こうして石仏を見事に刻んでくれた龍門の石工たちに、広宗はつくづくと感謝した。

(2001/11/12)
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         (五)

  天平勝宝2年(750)の9月、従三位中納言石上朝臣乙麻呂が薨去すると、従二位右大臣藤原朝臣豊成をはじめとする藤原一族の勢力は、にわかに生彩を帯びはじめた。
  正一位左大臣の橘宿禰諸兄による政権下において、諸兄自身はどちらかといえば、温和にして折衷派、聡明ではあるが、老いたせいもあって強引な指導政策や野心的な指嗾はせず、国家の安寧をひたむきに願っていたので、藤原勢力はなりゆきにまかせていた。従二位大納言の藤原朝臣仲麻呂はまだ45歳、兄の豊成とは三つちがいのやはり重臣である。
  この藤原兄弟二人こそ藤原不比等を祖父に持つ嫡流であり、父は天平9年(737)の疫瘡大流行で亡くなった武智麻呂、そして武智麻呂の妹である光明子こと聖武太上天皇の后(きさき)であった。天平勝宝は女帝の孝謙天皇、すなわち聖武と光明子との実娘が即位した御世である。
  父の乙麻呂が亡くなったとき、宅嗣(やかつぐ)は22歳を迎えたばかりであった。石上家一門に生まれた宅嗣は、父の風尚と英才を受け継いだばかりではなく、経史をこよなく愛尚していた。祖父の左大臣石上麻呂が、右大臣であった藤原不比等との覇権で、けっきょくは破れ去ったわけであるが、それにしても宅嗣にとって、歪曲された国史が世に遺され、石上家というよりは名門物部家に対して、末代まで名を汚されなければならぬ無根の事実と屈辱は、どうでも腹立たしく口惜しくてならなかった。

  養老4年(720)に仕上げられた国史『日本書紀』には、あきらかに不比等の偏見と策謀が混ざっているのを、宅嗣は見逃さなかった。父の乙麻呂が詩文に身を託しても、無理はなかったのだ。宅嗣はそんな父の詩集『悲藻』を、何としても末永く世に遺すために、別名を使って公的に撰述しておかなければならぬと思っていた。一年後、それは『懐風藻』(かいふうそう)という別名の形で、父の印象深い詩賦四首を織り込めておくことができた。すくなくとも『懐風藻』は、父の御霊(みたま)を鎮められそうだった。これには友人である淡海三船(おうみのみふね)も、骨身を惜しまずに協力してくれた。
  まだ若い石上宅嗣は、いつか将来において、物部姓を賜わり改名できることを望んでいたのである。祖父の石上麻呂は、大連(おおむらじ)であった物部尾輿の玄孫であった。そして、尾輿を父に持った大連物部守屋は、藤原不比等の統制下によって書き上げられた『日本書紀』で、まともに讒言(ざんげん)を受けていたのである。宅嗣は物部家一門の雪辱を、どうしても果たさねばならぬ使命感を抱いていた。そのためには、地位で以って政権を勝ち取るよりは、学問で以って人間の道を極めることのほうが、より大切だと思っていた。とりわけ、仏法の教えほど、文化の薫りが高いものはなかった。

(2001/11/19)
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  天平勝宝6年(754)2月、唐の高僧鑑真大和上の入京は、そのなかでも、徒らに低迷しきっていた日本の仏教界において、正しい仏法の伝戒を授けてもらえるというので、国をあげての歓迎ぶりとなった。日本への渡海計画を試みてから、足掛け12年目にしてやっとその本願を成就し得た鑑真大和上と、招聘をついに務め果たした学問僧の普照、天台僧の思託、彼らの怖ろしく永い艱難辛苦たるや、その並々ならぬ篤志に、天皇はかぎりない慰労を犒(ねぎら)われたのである。

  その年の4月には、東大寺の盧舎那仏るしゃなぶつの前に戒壇を立て、聖武太上天皇が初めに壇に登り菩薩戒を受け、次に皇后、皇太子が登壇受戒された。そして普照、思託を初めとして沙弥証修ら440余人も戒を受けた。
  やがて東大寺には、戒壇院、講堂、廻廊、僧房、経蔵といった具合に、大毘盧舎那仏の開眼に続いて次々と伽藍が建立されていった。
  鑑真大和上が西京の新田部にいたべ親王の旧地を賜ったのは天平勝宝7年(755)のことで、門人の普照と思託はさっそく大和上に、
「この地所に伽藍を建てとうございます。四分律蔵、法礪(ほうれい)の四分律疏、鎮国道場の餝宗義記(しょくしゅうぎき)、宣律師の鈔を伝え、持戒の力で以って国家を保護しとう存じます」
  と願い出た。和上はただちに賛成され、伽藍の造営を聖武帝に申し上げた。造営工事は難なく許可されたが、あくる年の天平勝宝8年(756)5月、聖武帝の崩御によって工事は一時中断となった。

  だが、孝謙天皇は亡父聖武帝の遺志を守られて、工事を再開させた。そして天平宝字3年(759)淳仁天皇の御世、8月に伽藍はついに竣工した。伽藍は孝謙天皇の御世に「唐招提寺」の勅額を賜って、そう名付けられていた。池の面にも紅葉が美しく照り映えた秋の日のことである。

(2001/11/26)
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  その唐招提寺の金堂には、巨大な乾漆造りの本尊毘盧舎那仏坐像、および千手観音立像、薬師如来立像がすでに造立されて安置されていた。盧舎那仏には、長門国厚狭郡の郡司物部広宗の第二子である物部広足らが仏工として、製作にあたっていた。広足は悲運の死を遂げた物部守屋を祖とする大連物部一族の嫡流、その末裔の一人である。
  物部広宗は今でこそ長門郡司として落着いてはいるが、もとは筑紫の将軍、大宰府の長官として任務が大きかった。現在は長門の豊浦に本拠地を置きながら、厚狭郡の霊仙寺を管理している。智識寺として建立された霊仙寺の本尊は聖観音石仏で奈良の都まで名が知れ渡っていた。唐国は洛陽の都にちかい龍門からの石工たちが、その一流の技術で見事に刻んであるという評判だった。
  唐招提寺の盧舎那仏に物部広足を充てたのは、石上宅嗣である。唐語に堪能な宅嗣と友人の淡海三船は、鑑真一行と接する機が多く、何かと高僧の謦咳(けいがい)に触れ、薫陶を受けていた。

  天平宝宇4年(760)4月、東大寺の道遷化せんげしたのを知った物部広宗は、都へはのぼらず長門国厚狭郡の霊仙寺にて、静かに高僧の死を悼み供養した。
  そして、霊仙寺に道の舎利が届けられたのは、翌月の半ばのことであった。わざわざ長門まで届けて来たのは、丈六の聖観音石仏を刻んだ林永邱自身だった。
「都での暮らしぶりは、どうだ?」
  と物部広宗が訊ねると、
「町並みは着々と整備されてゆくが、人心はますます荒廃にむかっております。道俗ともに嘆かわしいことです。戒律を正しく守っているのは、唐招提寺ぐらいのものでしょうな。お亡くなりになられた帝(みかど)さまが、つくづく偉く思えてなりませぬ」
  と林永邱は故聖武帝を偲んで答えた。
「お前のような傑れた石工には、私欲というものは、まるで無いのだな。本当にお前は偉大な男だ。どうだ、洛陽に帰郷せぬか? お前は日本に住むには、あまりにも惜しい男だ。洛陽に戻る意志があるなら、次の渤海(ぼっかい)船に乗れるよう手筈してやろう。無事に帰国できるよう、兵士10人も付けてやる」
「……」
「石上宅嗣卿も同行されるであろう。遣唐大使として、もしくは副使として、来年、出帆の予定だ。渤海経由で入唐(にっとう)することになっておる。どうだ?」
「……」
  林永邱は物部広宗の好意に対して、即座に返事はできなかった。東方に仏像を伝えることが、己れの生涯の使命だと思ったからこそ、こうして日本へ渡海したのである。帰国したい気持ちはあるが、仏像を刻むことがすでに心の平安であり、仏の道として帰り着くべきところでもある、と林永邱は思っていた。洛陽に故郷があるのではなく、洛陽で刻みつけて来た仏の世界に、郷愁があるのである。すさんだ衆生の世界に、郷愁はあまりなかった。

(2001/12/07)
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  石上朝臣宅嗣卿が遣唐副使に任命されたのは、翌年つまり天平宝字5年(761)冬10月のことであった。宅嗣卿は上総守にあって、けっきょく次期遣唐大使には仲真人石伴(なかのまひといわとも)卿が任命されて選ばれた。
  ところで、唐国では天宝14年(755)ごろ、宰相楊国忠(ようこくちゅう)の思いあがった権力闘争に反目を受けていた安禄山(あんろくさん)が、ついにたまりかね、大軍隊で以って挙兵して以来、洛陽は戦場の渦に巻き込まれて、一時荒廃しかけていた。そして安禄山の軍は、やがて長安をも占拠し、玄宗皇帝の退却によって、彼は俄然一国の帝位に就き自ら大燕皇帝と称していたのである。
  玄宗は宮殿を脱出したものの、自ら率いる護衛兵の内訌(ないこう)で、叛乱の原因をつくった楊国忠の殺害を迫られ、おまけに愛妃の楊貴妃まで死刑を要求されていた。楊国忠は楊貴妃のまたいとこだったのである。玄宗は仕方なく高力士に命じて、路傍の仏堂の前で楊貴妃を縊殺させ、自分は四川に落ちのびたのであった。
  一方、安禄山もやがて内訌にあい、殺されて、安禄山の軍の内部でも、分裂を生じはじめたのである。いわゆる安史の乱が続いていた。安禄山から、内部分裂の将であった史思明(ししめい)への台頭である。8年にわたる叛乱で、旧貴族国家の均田制は完全に崩壊されたのだった。大陸では大唐帝国の黄昏(たそがれ)を、徐々に迎えはじめていたのである。

  林永邱と彼の弟子たちは、日本の奈良の都に残る者もいれば、林永邱自身のように晩年は長門の辺境地に残って、生涯を閉じた帰化人もたくさんいた。東大寺の大仏を創案し造仏に手がけた名工も、実は林永邱の率いる弟子の一人であった。
  そして天平宝字7年(763)5月、唐招提寺の鑑真大和上が儚くも示寂したとき、石上宅嗣と淡海三船は静かに歌を詠んだ。石上宅嗣は遣唐副使に任命されていたが、けっきょくは唐国の内乱で派遣は中止され、それは逆に唐の高僧鑑真の大往生に接する機を得ることにもなったのである。
  淡海三船が鑑真大和上の伝記を綴った『東征伝』をやっと撰述し終えたのは、宝亀10年(779)2月8日乙卯(きのとう)であった。大和上の遷化を悼んで、淡海三船は『東征伝』の終りに自分を含めて6人の追悼詩を載せた。鑑真の高弟であった伝燈沙門の釈思託、そして次には金紫光禄大夫中納言行式部卿の石上宅嗣、伝燈賢大法師大僧都沙門の釈法進、図書寮兼但馬守の藤原朝臣刷雄、都虞侯冠軍大将軍試太常卿上柱国の高鶴林らの詩である。

(2001/12/17)
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  石上宅嗣が念願の物部姓を賜ったのは、光仁天皇の御世、宝亀4年(773)12月のことで、すなわち45歳のときであった。位階はそのとき中納言従三位式部卿だった。そして物部宅嗣に改名してから6年後の宝亀10年11月、宅嗣卿は再び石上姓を名乗ることになったのである。ただし、その6年間は物部朝臣宅嗣であったが、こんどは石上大朝臣宅嗣を賜ることになった。さらに宝亀11年2月には、大納言兼中務卿に任ぜられた。

  もはや旧宅をあしゅくじに改造して、晩年はもっぱらそこに好学の徒を集め、漢籍を主体とする外典の院を一隅に設けた石上宅嗣は、それを親しく芸亭(うんてい)と称した。同じ文人仲間の淡海三船とも、芸亭で宅嗣卿はよく語り合ったものである。
「三船よ、仏の道はこのままでよいのか? 伽藍ばかり建立して、世の民衆はどうだ。俺たち日本人は大唐国の猿まねにすぎぬが、次の時代には、きっと偉大な思想家がこの日本国からも生まれて来ると思う。俺たちはいまだ闇の中だ。しかし、かすかながら暁の気配を俺は感じる」
「俺も同じだ。間もなく、きっと夜が明けるぞ。見ろ。この坊舎へ来る者は、誰もが生き生きとしておる。若い彼らは、闇の世代ではない。まったく新しい時代の光だ」

(2001/12/25)
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         (六)

  天応元年(781)6月24日、左大臣石上麻呂の孫にあたる石上宅嗣卿が53歳で薨去した。その年、長門国厚狭郡厚狭郷の霊仙寺には、物部連春刀自売という尼僧が、国分寺の失火以来その寺に棲むようになった。物部連春刀自売は長門国豊浦の国分尼寺の尼僧だった。かつては和気清麻呂の愛妾でもある。神護景雲年間に、和気清麻呂が道鏡の怒りを買って大隅国に流された際、春刀自売も一緒に清麻呂を追った間柄である。
  清麻呂が召還されてからは、春刀自売はあえて彼に従いてゆかなかった。清麻呂の復帰を邪魔してはならぬと、己れを鎮めて、再び上京することはなかった。

  宇佐八幡の神託で皇儲(こうちょ)問題に触れて以後、二人の思い遣りは互いにより深くなったとはいえ、別離もまた来たるべき運命であったといえよう。
「都へ一緒に帰京してくれぬか?」
  若葉の生い繁った国分尼寺の境内で、清麻呂は彼女にやさしく言った。春刀自売はうつむいたまま、首を左右にゆっくりと振って拒んだ。
「このお別れの御堂みどうで、わたくしは出家しとう存じます。清麻呂さまの温かいお言葉だけで、わたくしは終生独り身でも生きてゆけます。どうぞ、ご安心なさって、都へおのぼりくださりませ」
「気持ちはやはり、変わらぬのだな?」
「はい。清麻呂さま」
  春刀自売は薄衣(うすぎぬ)の袖で、はらりとこぼれ落ちて来る涙を拭った。

  豊浦の国分寺が失火して、四天王像が焼け崩れたのは、その後の宝亀年間のことである。国分尼寺にも火が移りそうだったが、かろうじて火災は喰い止められた。物部連春刀自売は物部広宗一門の系譜をひく娘であった。
  厚狭郷の霊仙寺には、丈六の観音石仏があり、春刀自売にとっては永久に火災などで燃えることのない石仏に、何よりも親しみが湧いた。そして、霊仙寺に棲みたくなった最大の理由は、檀越(だんおつ)としての物部家ばかりではなく、石仏それ自体に、清麻呂卿の若かりし容貌とも似ていたからである。

  天応元年4月に桓武天皇が即位されて以来、和気清麻呂は新たな遷都で俄かに忙しくなった。政権の座を取り戻す一方で、長門に残した春刀自売のことは、やはり時折むなしく脳裡をかすめることがあった。霊仙寺に棲みついたことも知った。だが、聡明な桓武天皇の御世になってからは、甘い追憶も次第に歳月と共に風化し、掻き消えていった。長岡京からさらに平安京遷都という新たな大事業が、目前に迫りつつあったからである。
  仏法への道には、石上宅嗣や淡海三船が予感していたように、まったく新しい光が射しはじめていた。しかし、そこにはまた次の時代の別の荊棘が、やはり待ち受けていたのである。薄明のような幽かな淡い光も、再び闇のなかへ消えてゆくしかなかったのだった。

(完)

(2002/01/07)
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落款

昭和61年7月25日 脱稿
「厚東」第28集(厚東郷土史研究会 昭和61年作品)より

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