文学ガイド
文・古川卓也
  三島由紀夫の世界について
  泉鏡花と妖怪について
  川端康成と魔性との関係について
  横光利一の『機械』について
  ドストエフスキーとペテルブルグの町(1)
  ドストエフスキーとペテルブルグの町(2)
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1999.10.21(水) 晴   三島由紀夫の世界について

  三島由紀夫が自決した昭和45年、まだわたしは高校3年生であった。大学入試直前で受験地獄真っ只中にあり、およそ文学とは縁の無い平々凡々な並みの高校生活を送っていた。それに比べて、三島由紀夫はとにかく幼年期より秀才で天才であったことには間違いない。『仮面の告白』ではこの世に生まれた瞬間から眼が見えていた記憶があるというから、きっと間違いない。ただ、彼の小説を読むかぎりにおいて、強調と誇張と装飾が大変好きな小説家であったことも事実である。
  頭が良すぎて軟弱な幼年時代もあったが、晩年はその反動もあってか、やたらボクシングジムに通ったりボディビルの鍛え方もしていた。晩年といっても、その短い生涯はたったの45年間しかなかったのだから、人の10年が彼には1年で凝縮してしまった人生であったとも言える。自らが言ってるように、詩人のようには夭折ができず、若い時にこれといった大恋愛もできなかったことを、自伝でも嘆いているから、ずいぶん老けた青春時代を送っていたわけだが、これも人生を悟りすぎてしまった天才の運命でもある。けれども、自分では、詩人のような才能がなかったから小説家におさまったのだと言っているのは、いかにも三島らしいユニークさではある。そんな彼が最も好きな詩人は、アルチュール・ランボーでもなければボードレールでもヴェルレーヌでもない。日本人の伊東静雄であった。伊東静雄の詩はわたしも好きで、その美しい韻を踏んだ詩には、近代の日本語が最高峰に到達し、やさしく優美な哀音で奏でられ、結晶しているのではないかと思われる。

  さて、三島由紀夫の文学世界についてであるが、三島文学はとにかく面白い。小説がそのまま映画化されたり、三島が生きていた時に是非いちどお会いしておきたかった作家である。高踏文学もあれば戯曲もあり、『文化防衛論』なんてのもある。これも読むと傑作である。大衆文学でもあり、雑学としても一流の世界である。小説としての最後の大作『豊饒の海』などは、三島文学の、ある意味においては生涯を総決算する遺作である。四部構成は必然の理ともみえる自我の裁断である。その先には最早悟り得る何ものもない帰結のみである。あまりにも美に執着してしまった、急ぎ過ぎた人生であったと思われる。『豊饒の海』の最終部「天人五衰」では、現世に対する矛盾と不浄に耐え切れない主人公の諧謔的な悲しみが表現されてしまう。第一部「春の雪」をそのまま維持することもできず、第二部「奔馬」のように人生を疾駆し、第三部「暁の寺」のように自我を無へ変革しなければならぬヒンドゥー教混交の仏教思想で無理矢理にも阿頼耶識を全うしようとした三島思想とは、いったいイディオロギーの鼓舞というより、あくまで芸術の範疇を越えぬ緻密な筋書きでできたストーリーの演出家にも映るから、その「知」の大系には物凄いものがある。

  ここで、これまでのたくさんの作品を紹介してみたいところなのですが、有名な『金閣寺』や『潮騒』などはじめとして数多い評論もあることから、個人的に何年か前に歴史研究で関わることになった『癩王のテラス』という戯曲にほんの少しだけ触れて終わりと致しましょう。
  この『癩王のテラス』という作品は、カンボジアのクメール王国13世紀最盛期のジャヤヴァルマン七世王を主人公とした、アンコール・トムを造営してゆく物語です。ヒンドゥー教寺院アンコール・ワットはすでに12世紀後半にスールヤヴァルマン二世によって完成してまして、特異な四面仏顔塔を持つアンコール・トムは、何より慈悲をたたえる菩薩の顔でできた、いわゆる「バイヨンの微笑」といわれた大乗仏教に王が帰依したところの仏教寺院であったことが大きな特徴でした。二つのアンコールはとにかくスケールが大きいということですよね。それを踏まえて、三島文学の手にかかると、このような『癩王のテラス』に装飾されてしまうわけです。粉飾ではなく、芸術・美学の装飾家という意味です。闇から光へ誕生し、やがて光から再び闇へ消えていってしまった天才の光芒の軌跡が、三島由紀夫文学という世界だったのでしょう。

  また機会があれば、三島由紀夫が書いた評論もいつか話したいものです。谷崎潤一郎と川端康成を比較する論評などは、これまた楽しい分析だとわたしは思っています。


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1999.03.24(水) 雨   泉鏡花と妖怪について

  久しく文学作品を読んでいない。ネットワークに今さら「文学館」なんてコンテンツがいるだろうかと、少し首をかしげている。生きてゆくには金がいるはずなのに、そう、過去を振り返れば、わたしにはそれ以上に文学なくして生きてはいかれなかった。銭にもならない文学、就職に何の役にも立たない文学、陰気な文学、うまく世渡りできない文学、どうしようもない文学。
 そんな世間の役にも立たない文学から逃げよう逃げようとして、また次の会社に就職し働くのだけれども、やっぱり会社の役に立たない自分のみすぼらしさから、ついまた小説にそんな自分を救ってもらおうとして読書に溺れてしまう。すぐれた作品の感動が、また自分を助けてくれる。まるで麻薬患者のように、文学中毒から逃れられないのだ。そして、すぐれた書籍には、どんなに値段が高くても、金に糸目をつけないのである。だから、いつまでたっても貧苦に喘いでいる。まるで、引っ張ったゴムのように元の貧弱な暮らしに戻ってしまう。

  だが、文学とはもともとそういう実社会で縁の無い世界ではあるまいか。だから、誰をも感動させる力があるのではなかろうか。誰にも平等で、作品は人に至福を与えている。それが文学の本来の姿であろう。利害関係もなく、ドロドロとした煩わしさもない無垢な世界ともいえる。
  わたしもできれば、そういった人を感動させる作品を作ってみたい、その気持ちがいつからか自分のなかに芽生えていたのだと思う。この「文学館」では、これまでわたしが感動したり面白かった作品を、いくつかエピソードを踏まえて紹介してゆきたいと思います。
  そこで第一話は、泉鏡花の世界に少し触れてみましょう。 

 『高野聖』にもやはり妖怪が出て来ます。ずいぶん前に読んで、今も印象深く記憶にあるのは、大きな山蛭が頭の上にポトポト落ちて来る場面や、気持ちの悪い白い児童とその母親らしい女性の妖怪でしょうか。化かされて食い殺されても悔いはないほどの、たしか美しい若い女性だったように思います。高野山の修行僧が、飛騨の山中でいろんなものに出っ食わしながら、「うわァ!」とか「ぎゃあ!」とか言いながら、走って逃げる様子を、今もよく憶えています。

  泉鏡花はどうも化け物や妖怪が好きな作家のようです。この世に存在しない空想の生き物に、むしろ愛情さえ注いでいるようです。科学が発達すればするほど、そういったものに作家の愛情を感じます。それはわたしたちが忘れかけているものへの、人間らしい魂への哀惜かもしれません。おとぎばなしを信じなくなった、いや、馬鹿にさえするようになった近代人への精一杯の抵抗だったかもしれません。鏡花の作品はただ美しいだけではないと思います。人間らしさや幻想をとても大事にしたのではないでしょうか。醜く歪んだ現実社会の側面を知れば知るほど、そういった化け物や妖怪が恋しくなったのだと思います。『婦系図』はそんな社会を直視した例外的な作品ではないでしょうか。 


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1999.04.25(日) 曇り   川端康成と魔性との関係について

 川端文学の代表作がいったい何なのかは、わたしにはわからない。どの作品も秀逸か絶品か、批評のしようがない独特の世界である。題名はみなどれも美しいけれども、中身は気味の悪い幻想的なものもずいぶんある。
  川端康成全集19巻を買ったのは、今から25年前の21才の時である。大阪梅田の阪急古書街であったか、京都の古本屋であったか、よく憶えていない。憶えているのは、当時国鉄職員だった東京の友達が金沢にいたわたしのところへ遊びに来て、金沢からいっしょに北陸本線の列車に乗って大阪か京都まで行き、その川端全集を2人が両手で持ち帰った記憶だけである。その全集は今もわたしの部屋に残っている。新潮社で昭和48年のものだが、当時2万円で購入した。本の装丁もすばらしく、いい買物をしたと今でも思っている。

  その川端全集には、川端康成自身が所蔵している美術品の一つ一つが、カラー写真で1巻ごとに紹介されており、富岡鉄斎の掛軸もあればキスリングの絵画もあるほど、川端がいかに美術品のコレクターであったかを物語っている。エコール・ド・パリのキスリングの絵を所蔵していた川端は、ひょっとしてキスリングからずいぶん影響を享けて、あれらの官能的な珠玉の作品を書き綴ったのではあるまいか。川端にとって美はエロスなのかもしれない。エロスの変形が『片腕』であったり『眠れる美女』であったりするのだろう。『みずうみ』はべっとりとした感触があり、きたないもののうつくしさを描写している。といって、あくまで官能的な表現を忘れない。というよりも、現実描写より抽出されたトルソーそのものかもしれない。手法はまるで晩年のピカソのごとくキュビスムに仕上がっている。川端文学は、そう、まさに美術品のごとくに表現されている。

 『千羽鶴』においては、主人公の菊治よりちか子の存在がやはり鮮烈であり、魔性を越えて不気味である。『山の音』は川端文学晩年の大作かもしれないが、わたしには生の浄化と映る。大乗仏教は死を教えて生を悟らせようとするが、その生を浄化してしまうと死に近くなる境地ともなり、釈迦の入滅を想わせる。生きてゆけない小乗仏教からの解脱にも似るが、川端はその逆を歩いた巨星かもしれない。生い立ちが孤児であろうと、『葬式の名人』や『禽獣』を読めば、川端のまじめな文学もはっきりとみえてくる。
 『日も月も』はその文学スタイルとして、わたしの好きな作品の一つに数えられる。

京都はしぐれの秋で、今日もしぐれごこちだった。
大徳寺の横を過ぎて振りかえると、比叡山のいただきは薄い雨雲にかくれていた。
光悦寺への道をきくために、車がとまった。

  この出だしがすばらしい。作品『日も月も』は川端文学の世界では地味かもしれないが、このノーマルな小説の世界こそ、日本文学の原形ともいえる。主人公の松子のしゃべり方に、あるいはいろんな登場人物のしゃべり方に、わたしは日本語の品格の高さにつくづく感心するのである。現在の日本人は、あまりにも日本語の高潔さを忘れてはいやしないだろうか。日本語というものが、川端康成の小説のなかでは、こんなにも美しいものであるということを、是非いまの若者にはよく知ってもらいたいと思う。英語では表現しきれない美しさが、日本語にはあるのである。その奥深さには、1000年以上の歴史もあるということを、また忘れてほしくないのだ。

  それから、小説『日も月も』のなかでは、日比谷のブリヂストン美術館が出て来るが、かつてわたしはこの小説に出て来るその日比谷のブリヂストン美術館を自分も入ってみたいと思い、実際に東京へ行って確かめたことがある。中にモネの『睡蓮』が小説のとおりにあったので、ますます感動を深めたものだった。この『睡蓮』を見たことで、わたしは川端康成もこれを見たのかと思い、あらためて感無量の気持ちにさせられたのだった。ここに本物のモネがあり、これを眺めていた川端康成が、ますます身近に感じられたものだった。そこにあった『睡蓮』は意外と小さく横長であったが、わたしはその時、ふっとそばに松子のけはいを感じ、その錯覚を楽しんだような気がする。これも懐かしい思い出である。すばらしい小説には、すばらしい感動があるということだろう。


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1999.05.28(水) 晴   横光利一の『機械』について

  今月の文芸誌「新潮」6月号には「川端康成生誕百年記念特集」が組み込まれていた。特別企画された川端康成の年譜を見てみると、その生い立ちから自殺までの生涯は、日本の歴史をそのまま反映してみえる。日露戦争にはじまり、第一次世界大戦、関東大震災、世界恐慌、犬養毅首相殺害(5・15事件)、2・26事件、第二次世界大戦、ノーベル文学賞受賞、三島由紀夫割腹自殺、そして自らガス自殺。また、数多くの親しい作家仲間の死をも自ら存命中に葬送している。もちろん15歳で孤児となるまで両親や姉や祖父母といった近親者をも失くしている。死は常に限りなく、時代背景を織りなす歴史ともども密接なものになっていた。

  そんな中に、昭和22年にやはり親友でもあった文士仲間の横光利一を、川端は失っている。横光宅で行われた告別式で川端は弔辞を読み、「僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく」という一節を残したようだ。
  横光利一といえば、わたしには『日輪』よりもむしろ『機械』という作品の方に衝撃をうけた記憶が、いまだ鮮やかに残ったままだ。この作品はもう20年ぐらい前に読んだものである。『機械』は小説というよりも、現実社会をインテリが直視したノンフィクションのようなスタイルを執っている。けっして誇張された表現ではなく、その主人公があまりにも当時のわたし自身の姿にも似て、それが重複していたからかもしれない。横光も早稲田大学を中退し、どこかの会社の工場で働いていたことがあるのだろう。機械対人間の戦いではなく、機械的人間対横光の戦いなのだ。非常に面白い心理分析だと思った。ある意味では、ドストエフスキーの影響を多分に受けていたのかもしれない。
  いくらインテリでも、工場で役に立たない人間は、もうボロカスである。経験も資格もないと、見習いで技術を身につけてゆくしかないが、普通の人間ならばそれはそれで修行してゆけば別に問題はないのだが、やたら文学や哲学をやる人間はそこで大抵しくじる。水と油の関係のようになるから、交わりにどうしても無理が生じる。無理に交わろうとすると、それは誤解をうけ、とどのつまりはピエロになり下がるか、気丈に誇り高く孤独に耐えるしかない。

  横光の表現の仕方が、わたしは好きだった。モリエールの『人間嫌い』をつい思い出してしまう。悲劇的な度合いを越えると、むしろ喜劇的に昇華されてしまうことだってあるのだ。娑婆は苦労すれば苦労するほど、本当は面白い。みんなが一緒になって苦労し、長年同じ釜のメシを食ってると、教養も愛嬌に様変わりして粋なジョークの一つも生まれるものだ。だが、それは若いうちには無理かもしれない。

 経験は誰でも積み重ねてゆくが、教養は自らの意志がなければ積まれないものだ。教養とは学業でもなければ知識でもない。人のことを思いやる心の度合いである。その心が叡智を磨くことにもなる。その心を怠ると、判断力も鈍り、自分の真の姿さえ何ものにも投影されずに、まるで得体の知れない遠心力のようなもので、同一の楕円を描く機械的人生しか送れないかもしれない。作品『機械』には、文学・哲学という禁断の実をかじった文士・横光利一の宿命と社会に受け容れてもらえない悲哀が、まるで夏の朝顔の結露のようにひんやりしてみえるのだ。機械的人間になりたくてもなれない主人公の苦しみが、見事である。


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1999.06.20(日) 晴   ドストエフスキーとペテルブルグの町 (1) 

  ペテルブルグの町をもちろんわたしは知らない。行ったこともないし、写真で調べたこともない。わたしが知るペテルブルグの町は、19世紀半ばから後半にかけてドストエフスキーが描いた小説の世界で想像し得る範囲のものでしかない。時にシベリア流刑によって描かれた『死の家の記録』で、広大なるロシアの風土を作者自身と流浪することもあるが、彼の描く風土はいつも空がどんよりとした世界に包まれて始まる社会の一構図に他ならない。
  彼が描くものは、常に素朴な民衆である。灰汁の強い悪者も、したたかな権力者や下品で下等な俗人もたくさん現れるが、根底にはいつも敬虔なロシア正教の信仰心が横たわっている。富豪な貴族も売春婦も同一の人間という生き物の一線で平等に扱われる。身分が低ければ低いほど、彼のヒューマニティは濃く、やさしく包まれてゆく。彼にとって貧乏や乞食は恥ずかしいことではないのだ。非人間的な生き方にだけ酷烈に牙が向けられるのである。その洞察力は哲学者よりも一流である。

  比較されるのはトルストイかもしれないが、作家としての個性には雲泥の差がある。トルストイが貴族文学というなら、ドストエフスキーは民衆文学の代表といえよう。日本で言う大衆文学ではなく、世界文学という位置で民衆という人間を描ききった作家である。ここまで鋭く描ききった小説家を、わたしは他に知らない。その鋭さの背後には、観察力といったものではなく、19世紀という歴史が生んだ文豪なのである。ルネッサンスやバロックが人間の歴史に誕生したように、生まれるべくして必然に生まれた偉大なる人類の魂のようなものかもしれない。それらの作品が後世に残されたことが、またすばらしいのである。

  ドストエフスキーの作品中もっとも有名なのは、『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』など、みなどれもいいものばかりであるが、レフ・トルストイの『アンナ・カレーニナ』や『復活』などと比べると、中身のモチーフが根本的にずれている、と言ったら叱られそうだが、トルストイにとって何も小説など書かなくてもよかったのではないか、金と暇があったから小説でも芸術論でも書いてみようと思ったにすぎないのではなかったか、とも思えるのだが、トルストイのファンからここでまた辛辣に叱られそうな気もするけれども、こんな事を言うのにもわけがあるので許して頂きたい。
  と言うのも、大学生時代に『罪と罰』から読んでいったわたしは、またトルストイの『アンナ・カレーニナ』に始まり『芸術とは何か』を読むに至って、実際にトルストイの言うように、芸術家は別の職業を持って芸術に励むべしという理想を持って、東京から金沢に移り住んで試してみたからである。1年間ほどトルストイの理想に挑戦してみたが、これは非現実的な理想論だと後で悟った。

  理想論というものには、二種類のものがありそうである。一つには頭で考えたものを、机の上で紙に書く方法である。もう一つは追い詰められた肉体から発する、苦痛によって生まれて来る肉声の方法である。痛みを知らない理想論には、人は従いてゆけないということである。小乗仏教から大乗仏教に変わらざるを得なかった仏教の変遷と同一のことが言える。トルストイの理想論もそれと同じことが言えるのではないだろうか。探求の結果、わたしは知らず知らずにトルストイの世界から離れていってしまったのである。
  それとは逆に、読めば読むほど深入りしてしまったのが、ドストエフスキーの世界であった。そこに広がるのは、夢でも理想論でもなかった。社会の現実に引きずられてゆく人間模様の喜怒哀楽が、実に感動深く愛情を込められて描かれているのである。論理よりも、一行一行の言葉に、空や町並みや民衆の息遣いが、時間をかけてゆっくりと伝わって来るのである。一冊の書物にこれほど幸福感を与えてもらえるのは、そうないのではなかろうか。たった一行の言葉にも、途轍もない真理が深く込められているのである。

  次回はそんなドストエフスキーの作品に触れる予定です。


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1999.07.10 曇り   ドストエフスキーとペテルブルグの町 (2)

  ドストエフスキーの書いたものは長編小説がけっこう多くて、現代の若者たちはそんな大作をはたして根気よく読んでくれるかしら、というのが率直な気持ちです。読書好きな方ならさほど苦痛でもないでしょうが、読書家だからといって、かならずしもドストエフスキーを読むとはかぎりませんよね。平成の今の時代にドストエフスキーなんて全然求められるような時代ではないかもしれませんが、若い人でドストエフスキーを読んでいるという方がいらっしゃれば、是非メールを下さい。

  ということで、何を取り上げたらいいか、6月20日以来時間がなくて何も考えていませんでしたが、わたしの頭に焼き付いている光景の場所から、まず『キリストの降誕祭に召されし少年』という作品にちょっとだけ触れてみましょう。「降誕祭」にはふりがなでヨルカと付けられています。「キリストのヨルカに…」というふうにです。
  痩せ細った小さな男の子は、先程から眠ったままの母親に寄り添っていましたが、温もりがなくなって冷たくなった母親のそばから起き上がると、両手をこすりながら息をハァハァと吐いて手をあたため始めます。今が昼なのか夕方なのか判らず、横たわっている母親からそっと離れ、その恐ろしく冷たい地下室から外の道路へ出てみるのです。昏くなった雪の街路を、とぼとぼと少年は歩き出します。町の明かりの方へ歩いていると、一軒の家の窓に目がとまり、家の中をのぞくと、クリスマスを祝う家族が目に映ったのでした。それから、また次の一軒の家でも、みんなキリストの降誕祭を祝福しているじゃありませんか。「そうか、今日はクリスマスなんだ」と少年は気がつくのです。
  少年は自分が最後にパンを食べたのが、一体いつだったのか、もうすっかり忘れて何も憶えていません。ポケットにあった一枚のビスケットも、もうありませんでした。

  しばらく歩き続けていると、ふっと目の前に大変きれいなクリスマスツリーのようなものが、キラキラと現れたのでした。よく見ると、イエス・キリストのやさしげな顔と天使たちがいっぱい見えるじゃありませんか。「ああ、なんて綺麗なんだ」と少年は喜ぶのです。

  作品のストーリーは大体こんな場面で終わっていたと思いますが、内容はわたしもその後20年以上も再読はしていませんから、多少違っているかもしれません。大方のあらすじはこんな風だったと思います。少年が最後に見たものは、イエス・キリストだったのです。路上でそのまま行き倒れとなって、昇天したのでしょう。少年の母親の篤い信仰が、そのまま少年にも受け継がれています。地下室で寒さと肺病に冒されていた母親は、せめてキリスト正教の魂だけでも子供に与え続けていたということです。パンの糧と聖書だけが、この小品のモチーフとなっています。
  この短編は『作家の日記』のなかにあります。『作家の日記』がこれまた『カラマーゾフの兄弟』のように長いのですが、『キリストの降誕祭に召されし少年』だけを探して読むといいでしょう。純粋なる人間の原形をそこだけでも垣間見ることができるでしょう。19世紀半ばのロシアのペテルブルグの町が、大変に情感に溢れて描かれています。民衆こそが常に主役となっています。
  一方、その例外ともいうべきドストエフスキーの作品中逸脱しているのは、何といっても『悪霊』かもしれません。『悪霊』といっても、現代人がすぐに想像するようなSFまがいの化け物なんかじゃ勿論ありません。この小説は、資産家とか身分や地位を遥かに超えて、下手な無政府主義や無神論の革命思想をも一切虚無へ落とし入れる物語なのです。小説『悪霊』の主人公スタヴローギンの出現は、農奴解放令後に混迷する19世紀後半のロシア社会で、実に不気味に描写されてゆく、何とも哲学的人間の象徴化でもありますが、展開されてゆくストーリーの随所には緊迫感がちゃんと漂っています。思想は行動の現われでもあるのです。行動性のないものは、ここでは思想になっていません。だから、面白いのです。

  さて、ドストエフスキーを語るには、まだまだ時間が足りません。また今度お話ししましょう。

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