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山口県宇部市厚南区
ふるさと歴史研究レポート (市町村合併問題を探る)
失われてゆく町の地名復活を求めて
「厚南区」と「際波」の地域名に関する史料研究論考

【補記】 平成17年(2005)3月22日に山口県の厚狭郡山陽町は小野田市と合併し、山口県山陽小野田市となり、1200年間にわたって歴史文化の由緒ある地名だった「厚狭郡」は、誠に残念ながら事実上ついに消滅してしまいました。もう一つの厚狭郡楠町は、平成16年11月1日に宇部市とすでに合併しており、これでもう再び「厚狭郡」という地名の復活は永遠にないようです。山口県在住の文化人の一人として、誠に無念に思います。歴史を残した地名を抹消するのは、地方であれ都会であれ、歴史文化の剥奪にも等しいものです。まるで中国のタクラマカン砂漠に消えた古代オアシス都市・楼蘭の幻とまでは言いませんが、永きにわたる地名文化を捨て去る行為には、はなはだ憤りを覚えて止みません。もしイタリアからフィレンツェという呼び名を剥奪されたとしたら、イタリア人はどんな思いがするでしょうか。永きにわたる歴史文化を愛して育んで来た風土や暮らしを、すべて否定することにも等しい感覚となってしまいます。一つの地方文化を捨て去る前に、残さなければならないものと、捨ててもいいものとの思慮分別が欲しいものですね。「厚狭郡」「厚南」「厚東」という地名は、これで完全に郵便番号簿から消えてしまいましたが、地元の住民たちのほとんどは、厚狭、厚南、厚東という呼び名を優先して今も暮らし続けています。

(2005/05/09)



  正倉院文書の「長門国正税帳」天平9年(737)の条に、疫病で多数の死者を出し、朝廷から賑給(しんごう)を受けて、首部と豊浦郡だけで免穀を受けたその死者数は合わせて866人であることが記されているが、また具体的に厚狭郡という地名が初めて文書に見られるのもこの「正税帳」収納大税目録帳の天平8年(736)の条からのようである。「遷往厚狭郡貮佰肆拾束」の記載にみられる。厚狭郡は「あずさのさと」とよむ。つまり、厚狭郡という地名は実に1267年前にまで溯ることになる。すこぶる永きにわたり受け継がれて来た地名ということになる。地名とはかくも誇り高き国の歴史の無形の遺産でもある。古代の「あずさのさと」は、現在では「あさぐん」と呼んでいるが、このところの市町村合併問題で、その厚狭郡が実は危うく揺れ動いている。

【参考資料】 『大日本古文書』(東京帝国大学蔵版、1901年)
『寧楽遺文(上巻)』(竹内理三編、八木書店、1943年)
『寧楽遺文(下巻)』(竹内理三編、東京堂出版、1965年)
『平安遺文』(竹内理三編、東京堂、1947年)

(2003/01/20)


  明治6年の大小区制施行により、際波村と中野開作村と妻崎開作村の3村は第12大区、第10小区と定められ、明治12年の郡区町村編成法では三村連合して中野開作外二ヶ村と称し、戸長役場は中野開作に置かれた。明治16年の沖之旦村と明治17年の東須恵村は、明治22年の町村制によって、これら5村を含む新しい村名として、厚南村は誕生した。この時の厚南村の戸数は1049戸、人口は5342人とある。厚南村は明治22年4月より昭和16年10月まで、宇部市(大正10年11月誕生。それまでは宇部村)と合併するまで存続していた。厚南は厚狭郡の南側地区、東側地区を厚東、西側地区を厚西として呼ばれ、すなわち厚狭郡は厚南村・厚東村・厚西村で構成された地域であった。

  明治22年から昭和16年まで存続していた厚南村は、厚狭郡役所の指導・監督のもとに厚南役場において村政が行われていたのである。そして、村長も任命制であった。大正5年には厚南郵便局が設置され、藩政時代より厚東川を中心に広大に開作され続けて来た水利豊かな800町歩ほどの田園風景こそが、すなわち厚南平野であり、長州藩撫育局より指導を受けて潅漑用水路を引いたことで御撫育用水といわれるが、その御撫育用水を配した厚南穀倉地は防長でも御撫育田として当時はよく知られていた。

  現在ある厚南小学校、厚南中学校は実はわたしの母校でもあるわけだが、昭和49年には厚南小学校は開校100周年記念を迎えている。ふるさとを愛している者にとって、自分の生まれた正式住所からある日突然その地名が無くなることには、大変憤りを感じる。特に愛着を持っていた地名の抹消には許し難いものもある。山口県宇部市厚南区西ヶ丘が、ある日突然、山口県宇部市大字際波129番地となってしまったのである。『宇部市史 年表』を探っているうちに、あることに気がついた。昭和50年代から60年代にかけて宇部市が何年もかけて少しずつ第何次として住居表示を実施していることである。何かを合理化することで地名が消えているようにも思われる。大字際波という表示は、文献から明治時代に舞い戻っている表示である。

  天保12年の船木宰判区画から変わらぬ宇部村は、もともと厚南村からもずっと東南側に位置する一地域で、もし今のような大字際波という地名を当てるならば、むしろ長門藩宇部村大字際波にでもすれば似合うが、真相は厚南区が歴史ある厚狭郡の一画を想わせるので、それが面白くなくて、実は歴史観の薄い宇部村の嫉妬心から改変したのではあるまいかと、平凡な一市民として疑念を持っている。現在の宇部興産(株)を土台とする新興都市としてのプライドも根底にあるはずである。そして、所詮は行政職員といえども誰かが考案したものであることには間違いあるまい。たとえ有識者であれ一人の歴史認識不足発案者のために、宇部市という町づくりが間違って歪曲された方向へゆくのは、やはり阻止せねばなるまい。本当の歴史文化を逸した町づくりには、勇気を持って立ち向かわなければならないので、今回、こうして執筆にとりかかったわけである。この「ふるさと歴史研究レポート」が、昨今の市町村合併問題に何らかの解決糸口へのヒントとなればと切に思っている次第です。

【参考資料】 『厚南小学校百年史』(厚南小学校開校百周年記念事業実行委員会、1975年)
『宇部市史 年表』(宇部市、1991年)

(2003/01/22)

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