八代将軍・足利義政

目次へ戻る


 足利義政(1436〜1490)は六代将軍足利義教の次男として生まれた。父の義教といえば鎌倉公方持氏を征伐した将軍である。義政には二歳年上の兄義勝がいて、義教が嘉吉の乱で播磨の守護赤松満祐に殺されるとその後を継いで七代将軍となったが二年後病死した。そして義政がその跡を継いで八代将軍となった。1449年のことである。
 その頃、関東では足利持氏の子成氏が鎌倉公方であったが、1554年、成氏は関東管領上杉憲忠(上杉憲実の子)を謀殺して翌年下総古河に逃れ、古河公方を名のった(享徳の乱)。義政は将軍としてこれを認めず、弟の足利政知を鎌倉公方として送った。しかし、政知は関東管領上杉家の権力争いで鎌倉に入ることができず、伊豆韮山の地に館を構えた。これを堀越公方という。これによって関東に二つの公方勢力が誕生した。しかし、実質的には古河公方の成氏によって関東が支配され、義政も後にこれを認めることになった(1482年)。存在意義がほとんどなくなった堀越公方は政知の子茶々丸が北条早雲に滅ぼされる(1493年)まで続くが、実際は上杉家の支配地であった伊豆の少勢力として終わった。ちなみに、茶々丸の弟義澄は後の11代将軍である。
 足利義政は応仁の乱の時の将軍として、また銀閣寺の建立者として有名である。しかし、この二つについては面倒なので説明は割愛します(ばく)。そのうち時間ができたら加筆しようと思います(^^;