無羅多正健の紹介

 無羅多正健は平成14年1月12日忽然とこの世から消えて亡くなった。
 享年95歳。明治、大正、昭和、そして平成と4世代を我儘に過ごした絵描きは私たちの視界から消えて逝ったわけである。

 平成13年の暮れの29日、少し前から風邪を引いていた正健の看病が、弟子やヘルパーの手に負えなくなり、甥の大学時代の同級生の主治医みつや医師が朝から来ていた。みつや医師は、友人の病院に入院するように勧めていた。なんといっても我儘、頑として正月はここで過ごすと言って聞かない。朝からの説得は4時間を越す状況の中で、午後1時過ぎ ”じゃー、缶ビールを1本飲ませろ。そうしたら皆の言うことを聞く“ と言うことで、それっビールだ、おかずだ、と一騒ぎ、途中で気が変わるのでないかと、はらはらしながら小一時間。ビールを飲み終わるのを固唾飲んでみていた。
 みつや医師の友人の病院ということで特別室が用意されているのだが、ビールを飲みながらオウムが心配だとか、俺のことは心配しなくて良いのだから、ろれつの廻らない通訳を必要とする様な中で、やせ細った身体で見たところ3cmあるかないかの細い腕でテーブルにしがみつかれるのだから、川崎絵画会の長老の斉藤さんや、お弟子さんたち、ヘルパーさんなど朝から説得に奮闘してくれていた人などもいささかげんなりしている。
 もうこれ以上病院のほうで待てませんと連絡が入り、ようやく御輿を上げてくれた。
 何せ少しずつ改修はしたというものの、終戦直後に建てた木造の建物(バラック)の中に風邪で寝込んだ病人を置いておくわけにいかず、風邪から肺炎ということになれば、このやせ細った病人が命を落とすに違いないと、誰しも考えていた。現実は気持ちの張りをなくしたために亡き夫人の花美ちゃん(昭和60年死亡)に呼び込まれたかも知れないが、とにかく物事は浅学の我々の考えたとおりには運ばない。
 昼間と言っても日中の太陽は低く、薄寒さは隠せない。ようやく3時過ぎには入院。入院手続きを終えて、関係者一同ホットする。後は病院に脱走をしないように良く御願いをして帰る事にしたが、それでも心配だと言う関係者もいて、近くに住む人たちにもしばらく付いて居てくれると言うので、御願いをしてかえる。
 食事も良くなり、寒さを感じない環境は年越しを無事に過ごし、どんどん回復、8日頃には医者の方から“そろそろ退院を考えてください。”と言われ皆さんに通知し、御弟子さんたちに”良かったねえ、先生“と言われご機嫌麗しくニコニコしていた。
 ところが翌々日の土曜日、どうも様子がおかしい、肺炎だと緊急連絡が入った。病院へ駆け付けると、今夜が山かもしれない。……と言って9時過ぎにはアウト。
 あっけなく、“何をどうしろ、此れはこうしろ ああしろ“も無く逝去してしまった。
 連れ合いも今は無く、7人も居た兄弟はみな無くなり残るは絵の関係者と甥っ子姪っ子のみ。その他、遺されたのは絵、大小取り混ぜて1000点近く此れをどうするかが問題であった。
生前、我侭いっぱいに絵の中に没頭した叔父は、世間の常識をわきまえず、多くの弟子も残したが、又多くの人々を失った。著名な画家もその中には何人か居るが、そう言う意味では絵も孤独であった。絵はどちらかというとゴッホに近く、ちびた絵筆で勢いをつけて描かれた絵は、どっか我々の世界からはみ出したものを感じさせる。そのためその毒っけに当てられた御弟子さんたちはその世界から抜け出すのに苦労しているのかも知れない。
 名画には程遠いかも知れないが、惹きつけられる物は惹きつけずに置かない毒っけを持っている。川崎のゴッホと言う人も居るが、日本のゴッホと言っても差し支えないかもしれない。

 絵は、現在川崎の中原区の御寺さんの貸家を賃借している。私としては10年くらいはなんとかして保存はできるが、それ以上は難しいなと感じて居る。そうかと言って焼却処分と言うわけにも行かず、広く世間の皆様に見ていただいて御手元に置いていただくのが一番良いのでないかと考えた次第である。
 比較的に小品も有り、どなたでも御求めやすいのから処分して行こうと考えている。そして末長く御手元で照覧戴きその絵から汲み取れるものがあったら、汲み取って頂ければ叔父本人も本望で有ろうと考えられる。従って私の方は管理費さえ出れば良いとの考え方から生前の相場の1/2〜1/3 の御値段で御願いする積もりである。今回第1回として数点の大きな物は別物として、小品のみを提示させていただくことにしたので、御高覧戴きたい。


 作品に就いては何時でも見ていただけるように現在段取り中です。それまでここ半年ほど必要とする事から、日曜のみ日を決めて対応して行きたいと考えています。

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