二 十 世 紀



 二十世紀ももう残りわずかになってまいりました。十九世紀は発見、発明の時代でありましたが今世紀はそれを使用したり、改造したり、世界大戦を中心として大いに利用した世紀だったようです。恐怖の兵器と、それを改造、利用して便利さを求めた私たちでありました。文明の利器は大変な進歩で生活をガラリと変えてしまいました。茶の間にいながら世界の情報が見られ、ボタンを押せば食事が出来、世界中どこへでも短時間で行くことが出来、眠らない街、歩きながらでも電話がかけられる、便利さはきりがないほど私達の生活に入り込んでいます。森総理が好きなIT革命とやらも、すぐにやってくることでしょう。しかし、本当に生活が楽になり、快適になったのでしょうか。実は、そうして得たものの大きさの変わりに失ったものの大きさを私達はすっかり忘れているのではないでしょうか。昔あって今無いモノ、考えればたくさんありますね。どじょうの泳いでいる川星空、ホタル、人のぬくもり、親子団欒、井戸水、夜の闇、これもきりがないほどあります。ここでどちらが昔が良いとか、今が良いとかは一言では言えないことでしょう。でもこれだけは言えるのではないでしょうか。『暖かさを好むものは、煙を我慢しなければならない』(ロシアの諺)ということを・・・・・ このことを私達はいつのまにか忘れているように思えるのです。いや、知らないフリをしているようにしているのかもしれませんね。借金は次世代にというように先送りしているように思えるのです。もっと便利でもっと豊かにと、そのことばかりに捕らわれています。しかもそれは私達の共通認識として定着しているようです。しかしちょっと振り向けば大きな負の遺産を残しているようであります。見て見ぬ振りをし、知って知らぬ振りをしています。又そのようなことが見えずらくなってきているのも事実でしょう。なぜなら今世紀は負の部分を覆い隠すのが便利さだったように思えます。石炭や薪スト−ブの時代は部屋中煙で煤け、暖かさの裏側に煙りを我慢しなければならなかったのですが、石油ストーブの改善は、そんなことは思いもよりません。『苦あれば楽あり』という真実さえも見失わせたのがこの世紀末だったようです。しかし、バブルの崩壊は、不景気風と共に、大きな教訓を私達に与えてくれたようです。ゴミ問題、リサイクル、ものを大事にを見直す絶好の機会が来たのです。数限り無くガラクタ、ゴミを消費し続けた結果がこの世紀末になってようやく見えてきたということでしょう。仏教が二千五百年も前から指摘し続けた『あるがままにものを見よ、すべてのものは互いにもちつもたれつの関係にある』という縁起の根本原理は今もというより、今こそ考えるべき言葉でありましょう。この原理は今でも生きており、私たちの人生の中で永遠に働いているということを身にしみて感じる必要があると思います。《いいとこどり》でこの世にサヨナラでは人間として悲しすぎませんか。見えない部分、あるいは見えにくい部分、あるいは目を覆っている部分《例えば、生物を殺して今生きているという事実、木を切り倒して家に住んでいる事実、空気を汚し続けて車に乗っている事実、等》私たちが今あるという縁起の事実をしっかりと見つめる勇気をもちたいものであります。二十一世紀に向かい二十世紀の反省を込めて・・・・