人間じゃねえ

 

今日、理容室へ行って頭を刈ってもらい、いい気持ちになっているところ、 テレビで、《山口県

の十八歳少年の母子殺しに判決・・・無期懲役》と放送されま した。殺された方の遺族は、『納

得がいかない、何としても死刑にしてやりたい』 と憤っておりました。  それを見ていた隣のお

客さん『こんなやつは、人間じゃねえ、こんな可愛い子供を 殺すなんて死刑が当たり前だ』と言

います。それを聞いておりました私、一言 『人間だからこんな事をするんじゃないの・・・』と。回

りは一瞬し〜ん、 余計なことを言ってしまったかなぁとも思いました。 昔から人間の根本は性

善説、性悪説、色々と論ぜられています。仏教では何と 答えるでしょうか。仏教では因縁によ

ってどうにでもなる可能性を秘めているのが 人間の性と言います。実際の行為に移さないので

わからないのですが、心の働きは、目まぐるしいものがあります。人を恨み、そねみ、悪口は大

好き、それを表に出さ ないのは心が美しいのではありません。私が他人からよく思われたい、

又いい人間 に見せたいだけなのかもしれません。 江戸時代の『盤珪禅師語録』に次のような

事が出ています。ある盲人がおりまして 、この方は人の話す声を聞いて、人の心中を見抜くと

いうのです。そしてこの方の 言葉として『賀辞には必ず愁声あり。弔辞には必ず歓声あり』とあ

ります。賀辞− めでたい言葉の裏側にひそむ、ねたみ、そねみの心、その反対に弔辞−悲し

や 不幸の慰めの言葉の裏側にひそむ、ホッとしたような歓声があるということで しょうか。そう

言われますと、何やら自分の事を言われているようでドキっと いたします。テレビのワイドショ

−を見ましても、週刊誌を見ましても、 話題は人の不幸ばかり、めでたい事との比率は九対一

にもなるのではないで しょうか。だれとだれが不倫をしている。だれが事業に失敗した。離婚、

自殺、 悪口、人の不幸話、こちらの方が圧倒的に売れるのです。口ではうまいことを 言ってお

きながらこんな事が大好きな私なのです。井戸端会議も同じようなもの でしょう。話題はもっぱ

ら人のあら捜しに終始しているようですね。 そういえばこんな言葉を聞いたことがあります。『新

居を建てたら三年間注意を しなさい』と。なぜなら人の妬みを買わないように言葉、態度に気

をつけなさい ということらしいのです。先の盲人の方は目が不自由だからこそ心がよく 見える

のかもしれません。目も耳も何もかも達者というのはその健康さ故に 傲慢になり、かえって真

実が見えない事があるようです。この方は 『我、盤珪和尚の音声を聞くに、利衰毀誉尊卑老稚

において其音異ならず』と、 盤珪禅師を讃えられました。金持ち貧乏、地位の有る無し、老も若

きも、 全く別け隔てがなかったと言うのです。禅師みたいになれればよいのですが 『心口各

異、言念無実』(心と口が全く異なっており真実がない)の私を 思い知らされるばかりでありま

す。 他人のためにと思っていても、いつのまにか自分を中心に置いてしまう私、 せめて、せめ

て『そんな、お恥ずかしい私だよ』という押さえだけは持っていたい ものですね。