j
              印刷はこちらからどうぞ

 
                                     
                      
あ く せ く
 今年も、わずかになりました。本年も世の中では様々な出来事がありました。安保法制やら東京五輪の競技場、デザイン、TPP、どれもがおおきな問題であり、世界が狭くなった印象があります。何か今日本は大きな歴史の分岐点に立っているようです。
 時間の流れは速くなり、なにがあったかも思い出すのが難しくなっています。
 芥川龍之介が昭和の初めに、「ぼんやりとした不安」と述べて自死した時代と重なって見えます。戦後七十年を迎えて何かが漠然としてですが、変わりつつあるように思えます。親子の断絶とか、登校拒否とか、世代間の確執とか言われたのが、いまでは懐かしく思えるほどです。 そんな時代よりももっと暗い「ぼんやり」とした雰囲気が今の日本を覆っているようです。 誰しもが平和で、安心して豊かな幸福な人生を送りたいと思い日夜努力しているはずなのですが?。「奮闘努力の甲斐もなく、今日も涙の日が暮れる」そのものです。
 何か根本になるものを間違えているようですね。「お金さえ」あれば「健康で身体が丈夫」であれば「こどものために」懸命に努力し、悩み、解決策を講じながら、これらを幸福の条件として追い求めてきました。これらが満たされれば全てのことが解決すると思ってきました。 「人間忽忽とし衆務を営み、年命の日夜に去ることを覚えず」(往生礼賛)【人間は懸命に幸せを求め、そのために本当の足下の自分の姿に気づかずない】のでありましょう。 
 仏典にこんな話があります。【ある男が王様に大きな土地が欲しいと願い出ます。
 それなら王様は朝の夜明けから日没まで丸く線を引くがよい。その線の中をおまえの土地として与えようと約束いたします。男は夜明けとともに線を引き始めます。食べること水を飲むこと、休むことも忘れ、一心に線を引きます。走りに走り大きな円が出来ました。
 男は広大な土地が手に入るはずでしたが、日没と共に息絶えてしまいました】
 どうでしょう。私たちもこれと似たような生活を行ってはいないてせしょうか。
 私たちが考える価値ある人生はやがては老・病・死に捕らわれ終わってしまい、「こんなに苦労したのに、こんな事のために一生を費やしたのかという、悔いる人生を送ってはいないでしょうか。幸せを量と長さばかりにとらわれて、限度がありません。一つ求めて得ることが出来れば、すぐに次が欲しくなる、そして限度がなくなってしまう(求不得苦」(求めても得ることの出来ない苦しみ)のであります。いのちそのものも同じです。おめでとうと祝福の中で誕生し、かわいそうに、気の毒に、ご愁傷様で終わって何が良い人生か、です。三十歳で亡くなられた竹下昭寿さんは病中で「人間は長さと量ばかり問題にしている。お金・いのち・うまいもの・・・大事なことは方向がきまることが大切」と述べられました。私たちの大切なことは何なのでしょう。自分だけの幸せを求めあくせく働き続けているのが実状でしょう。
 健康○病気× 金持ち○貧乏× よい子○悪い子× 自分勝手に自分のものさしで人生の価値をはかっているようです。「くらべるから悲しいのだ、苦しいのだ」という言葉がありましたが、仏法に照らされるものさしはくらべることの出来ない世界なのです。私たちは何をあくせく生きているのか、今一度考える時代が来ているように思いますが・・・・