j
              印刷はこちらからどうぞ

 
                                     
                        
安全・安心
 
今の世の中、何があっても携帯電話が一役買っています。
 生活に欠かせないものとして存在感は増しています。今携帯電話がなくなれば、日本中がパニック状態になるのではないでしょうか。先日の大震災でも電話がつながらなくなり、大騒ぎになりました。今や携帯電話は、伝達通信ばかりでなく、コンピューター機能、カメラ、オーディオ音楽、ナビゲーター、クレジット、通帳の機能まであり、生活のすべてをこの小さな端末機に頼り切っています。逆に言えば携帯がなければ何も出来ないという不自由さもあるということでしょうか。ツイッターをするものがいれば、振り込め犯罪をするものがあり、メールやブログで人とのつながりを求めたり又命綱のように握りしめて派遣会社からの連絡を待っている人もいます。たった一つの道具に命を賭けて待っていることが異常でなくて何なのでしょう。使い方では便利この上もないものなのかもしれません。
 でも便利さを通り越してもはや不自由になってはいませんか。
 人と人との温かさを失い、メールで話が出来ても顔を合わせると話が出来ない人もいます。 秋葉原連続殺傷事件の犯人は携帯電話を二台持っており一台の電話からもう一台の電話にメールを発信していたと言います。架空の他人を作り自分に電話をしていたのです。
 それでないと辛くて寂しかったというのです。本当のつながりが持てない今の私たちを表していると思いますね。人と人のつながりを誰もが求めていながら、自分勝手なつながりしか構築出来なくなっているのかもしれません。人間何か生きる力が失われていっているようです。 機械や便利さに支配され人間本来持っていた危機回避能力も怪しくなってきています。
 以前回転ドアに挟まれて事故死された子供さんがおられました。又エスカレーターにサンダルを履いて足が挟まった事故がありました。「回転ドアは危ないから止めろ」「挟まるようなサンダルは作るな」「エスカレーターはすぐに止まるように」との大合唱でした。しかし製造メーカーは困惑したと思います。メーカーはそんなことを想定しては造らないからです。 
 いったいどんな乗り方歩き方をしたらそのようなことになるか、考えもつかないことだったと思います。私たちの生活の場にはあらゆる危険が待ち受けています。
 もちろん事故などは起こらない方が良いのですが最近では事故が起きると利用者よりも製造者や管理者がやり玉に挙げられ責任の追求です。消費者が大事にされ安全性が高まるのは結構な事なのですが、このような事からすべて安全・安心が当たり前のようになり注意を怠り危険を回避する力が弱くなってきているようです。駅のホームに落下防止の柵を造り落ちたら注意が足りないよりも柵を造らなかったと言うことです。すべての事で危険ゼロを望む社会は差別や排除の論理に似ています。不潔を排除し、障害者や高齢者や、犯罪者を排除し危険な道具を排除し、事故が起きれば責任者を捜し、追求です。そこに見えるものは「私は悪くない、責任はない」という自分を失った世界です。「お互いさま・おかげさま」と、共に不完全な人間同士が支え合っていることを仏法によって知らされることです。
 この度の大震災は私たちの人間としての生き方を問われているように思われます。