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 安全神話
 
地下鉄のホームからの落下事故、エスカレーターに靴が挟まり、足切断の事故、マンションからのベランダからの転落事故、便利さ、快適さ、また景観等、生活の上での安全性、快適さを追い求め、このような事故が頻繁に起こっています。事故はもちろん起きないことに越したことはないのですが、このような事故が起きますと決まって責任の追及がなされます。
 安全の義務を怠っていた?管理者を置いていたのか?監視カメラは設置していたのか?管理責任が厳しく追及されます。学校などでの事故では、教師や学校長が告訴されるのが当たり前になっています。学校長等の謝罪や弁解などは何度見せられたことでしょうか。注意義務を怠っていたと言うことなのでしょうが、動き回る子供達をどこまで把握できるのか、目を光らせる事が出来るのかを考えますと限界もあることでしょう。この防止のために、莫大な費用をかけて、電車のホームには自動防護柵、学校の屋上には転落防止の高いフェンス、防犯カメラをそこら中に配置して、監視するようにします。しかしそれでも、事故を防ぎきることは至難です。
 学校ばかりでなくどこもかしこも事故が起きないように先回りをして対策を立てています。 その対策も本来の安全を考えているていうよりも、管理する方に責任が向かないように担保するような感じです。事故が起きても言い逃れができるような対策に思ってしまいます。
 実は便利さというものは、危険と隣り合わせということを私たちは忘れてしまったのかもしれません。どこもかしこも危険はあるのです。公共施設であっても危険はあるのです。私たちの生活空間はどこも安全ではないのです。それはほとんどが不可抗力の事故と言うより、本来の遊び方をしなかったり使い方を誤ったりしたときに起こります。最近は事故が起きますと「責任者出てこい」「安全性はどうした」等の大合唱です。子供や消費者が大事にされ商品などの安全性が高まるのは良いのですが、私たち消費者が安全性もすべて相手に預けているようです。「ナイフを持って手を切ったから保証してくれ」と言っているようなものです。それは私たち生活者が生活するための危機管理能力が失われていっているのかもしれませんね。危険を察知することは本能的に備わっていたと思いますが便利さはこのようなものも失わせました。
 危険を0とする事を望む社会は排除の論理と同根です。不安要素を排除し、汚いものは排除し、不安な要素を取り除き、やがて高齢者、障害者を邪魔と見なし、排除へとつながっていきます。事故が起きれば犯人捜しに血眼になり、百パーセント安全なのが権利とよばれているものなのでしょうか。悪いのは全部「他」怪我をするのも、病気になるのも誰かのせい、ひょっとすると今に、老いるのも、死ぬのも他の責任にされそうです。安全は大事なことです。
 管理していくのも大事でしょう。しかし人間の造るもの、人間の行うことに完全はないのです。親鸞聖人の「火宅無常の世界 よろずのこと みなもてそらごとたわごと まことあることなき・・・」なのです。間違いを犯しうる、それはこの社会も、私自身もなのです。「原発安全神話」などと言われましたが、神話は物語の世界です。神話は事実ではないのです。「教育勅語」が問題になっていますが神話を復活させて、安全を喧伝するつもりなのでしょうか。
 本当を生きる、私自身を真実に見ていく「勇気」が大切に思えますが・・・・