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『あ と さ き』
 戦(せん)後(ご)責(せき)任(にん)の問(もん)題(だい)がよく言(い)われます。そのせいか戦(せん)後(ご)六十五年を超えながら何(なに)事(ごと)につけ責(せき)任(にん)回(かい)避(ひ)ばかりが目(め)につきます。政(せい)治(じ)も事(じ)件(けん)も社(しや)会(かい)も問(もん)題(だい)には「時(じ)間(かん)が経(た)てば忘(わす)れる」とでも言(い)いたげです。政(せい)治(じ)も代(だい)議(ぎ)士(し)バッジをつけているうちだけの責(せき)任(にん)だけなのでしょうか。原(げん)発(ぱつ)再(さい)稼(か)働(どう)が問(もん)題(だい)視(し)されていますが、今(いま)は事(じ)故(こ)が起(お)きなくても今(いま)動(うご)かすことによって将(しよう)来(らい)の事(じ)故(こ)の責(せき)任(にん)、又(また)核(かく)のゴミの処(しよ)理(り)は何(なに)も決(き)まっていません。その頃(ころ)は「自(じ)分(ぶん)はもうやめている」のでしょうね。
 グローバル化(か)ということは経(けい)済(ざい)だけの問(もん)題(だい)ではなく、地(ち)球(きゆう)上(じよう)のあらゆる国(くに)の距(きよ)離(り)感(かん)が縮(ちじ)まったことを意(い)味(み)します。原(げん)発(ぱつ)事(じ)故(こ)の被(ひ)害(がい)は自(じ)分(ぶん)たちの国(くに)ばかりでなく他(ほか)の国(くに)にも大(おお)きな影(えい)響(きよう)を与(あた)えます。目(め)先(さき)の「儲(もう)け」に汲(きゆう)々(きゆう)としているように思(おも)えてなりません。オウムの事(じ)件(けん)の指(し)名(めい)手(て)配(はい)犯(はん)が捕(つか)まったり又(また)十(じゆう)七年(ねん)前(まえ)の事(じ)件(けん)を思(おも)い出(だ)させますが、あの事(じ)件(けん)で私(わたし)達(たち)は何(なに)がわかり、何(なに)が変(へん)わったでしょうか。麻(あさ)原(はら)彰晃(しようこう)の死(し)刑(けい)が確(かく)定(てい)しても、何(なに)もその事(じ)件(けん)の本(ほん)質(しつ)は見(み)えていません。
 事(じ)件(けん)のたびに時(じ)代(だい)背(はい)景(けい)とか、若(わか)者(もの)の文(ぶん)化(か)論(ろん)などが語(かた)られますが、それなら良(よ)い方(ほう)向(こう)に向かっていきそうですが、事(じ)実(じつ)は逆(ぎやく)方(ほう)向(こう)に進(すす)んでいます。街(がい)頭(とう)で美(び)少(しよう)女(じよ)写(しや)真(しん)撮(さつ)影(えい)会(かい)に群(むら)がる若(わか)者(もの)たち、考(かんが)えて見(み)れば以(い)前(ぜん)はひっそりと閉(と)じこもり刺(し)激(げき)を求(もと)めていた世(せ)界(かい)が外(そと)に飛(と)び出(だ)してきたのかもしれません。先(せん)日(じつ)AKB48の総(そう)選(せん)挙(きよ)というのが行(おこな)われ、テレビ視(し)聴(ちよう)率(りつ)も高(たか)かったようです。
 十五(じゆうご)歳(さい)ぐらいからの子(こ)供(ども)タレントに媚(こ)びへつらうテレビ局(きよく)、そして大(お)人(とな)たち。誰(だれ)もが宮(みや)崎(ざき)勤(つとむ)や酒(さか)気(き)薔薇(ばら)聖(せい)斗(と)になるのも恥(は)ずかしくないのです。「おたく」と呼(よ)ばれた人(ひと)々(びと)は時(じ)代(だい)に受(う)け入(い)れられ消(しよう)費(ひ)されています。こっそりひそかに楽(たの)しんでいた世(せ)界(かい)が今(いま)では日(にち)常(じよう)になってしまいました。ネット社(しや)会(かい)では性(せい)的(てき)な映(えい)像(ぞう)は大(お)人(とな)、子(こ)供(ども)を問(と)わず見(み)ることが出(で)来(き)ます。大(お)人(とな)と子(こ)供(ども)の境(きよう)界(かい)線(せん)も無(な)くなった社(しや)会(かい)を私(わたし)達(たち)は造(つく)ってきているのです。日(に)本(ほん)は児(じ)童(どう)ポルノの最(さい)大(だい)の輸(ゆ)出(しゆつ)国(こく)と言(い)われます。十(じゆう)代(だい)向(む)け雑(ざつ)誌(し)も、全(ぜん)編(ぺん)恥(は)ずかしげもなく性(せい)の内(ない)容(よう)で一(いつ)般(ぱん)書(しよ)店(てん)で売(う)られています。こんな国(くに)がどこにありましょうか。少(しよう)子(し)化(か)で子(こ)供(ども)を大(たい)切(せつ)にと言(い)われながら子(こ)供(ども)を守(まも)る社(しや)会(かい)になっていないのです。「あとさき」を考(かんが)えないということなのでしょう。何(なに)事(ごと)につけ何(なに)かを為(な)すときには「あとさき」を考(かんが)えるものでしょう。しかし今(いま)はそれが無(な)くなったのかもしれません。
 目(め)先(さき)の儲(もう)けに目(め)が眩(くら)んでいるのか、いい加(か)減(げん)な、自(じ)分(ぶん)に都(つ)合(ごう)の良(よ)い見(み)通(とお)ししか語(かた)りません。
 また後(のち)々(のち)までを考(かんが)える人(ひと)々(びと)は決(けつ)して危(き)険(けん)なところには踏(ふ)み込(こ)めないはずです。しかし今(いま)の日(に)本(ほん)の千兆円(えん)を超(こ)える借(しやつ)金(きん)の山(やま)を見(み)ますとそれも怪(あや)しくなっていますね。私(わたし)達(たち)はこの「あとさき」ということを忘(わす)れてしまったのかもしれませんね。私(わたし)達(たち)は為(な)す事(こと)すべてが、何(なに)らかの影(えい)響(きよう)を与(あた)えていることを知(し)るべきだと思(おも)います。仏(ぶつ)教(きよう)の「身(み)・口(くち)・意(い)」の三(みつ)つの業(ごう)(行(こう)為(い))は時(じ)空(くう)を超(こ)えていると言(い)うことです。エネルギーを節(せつ)約(やく)するというのは、再(さい)生(せい)可(か)能(のう)なエネルギーに代替(だいがえ)を求めるのではなく、ものに溢(あふ)れた消(しよう)費(ひ)生(せい)活(かつ)を縮(しゆく)小(しよう)していく事(こと)だと思(おも)います。節(せつ)電(でん)ではなく生(せい)活(かつ)スタイルを真(しん)剣(けん)に考(かんが)える時(じ)期(き)に人(にん)間(げん)が自(し)然(ぜん)から問(と)われています。昨(さく)年(ねん)の大(おお)きな震(しん)災(さい)は私(わたし)達(たち)の生(せい)活(かつ)を見(み)直(なお)す機(き)会(かい)であったのです。しかし実(じつ)際(さい)は、相も変(か)わらず復興(ふつこう)の名(な)の下(もと)に同(おな)じような消(しよう)費(ひ)・文(ぶん)明(めい)社(しや)会(かい)を造(つく)ることに躍(やつ)起(き)になっているように思(おも)えるのです。なかなかしぶとく懲(こ)りていませんね。震災(しんさい)で犠(ぎ)牲(せい)になられた方(かた)の声(こえ)なき声(こえ)を謙(けん)虚(きよ)に耳(みみ)を傾(かたむ)けたいと思(おも)いますが・・・・・