後 始 末

『おーい、遊んだ後は後始末を、きちんとしないか』、私が子供によく言ったことであります。

子供は『後で・・・』であります。遊びの後始末ならよいのでしょうが、ここでの後始末と

は、人生の後始末の事であります。世界一の借金王と言いながら後始末もしないで倒れられた

総理大臣、親が亡くなれば直ちに子供の相続争い、後始末の難しさを思いますね。

ところで、自分のことと問われますと、さっぱりと後始末の出来ていない自分を思い

知らされます。無常の世界と聞かされつつもまるで二百年も三百年も生きるがごと

きの生活ぶりであります。グルメブームに乗っかり世界中のあらゆる食材を食べつくし、

冬は暖房、夏は冷房と季節感の無い家屋に住み、ボタンを押せば機械が何でもして

くれる、そんな中に生活しながらマダ、マダと不満な顔をしている『私』であります。

SF小説に《人間の未来の姿は手足も胴も退化し、頭だけが大きくなり、そして指

一本だけが残るだろう》というのがありました。

コンピュターは実際にあらゆることを可能にしていくことでありましょう。

でも後始末ということを考えた時、そのような人生の歩みでよいのでしょうか。

人間が一日に生存に必要なエネルギーは二千カロリーですが、日本人はこの二十八倍、

アメリカ人はこの五十七倍を消費しているという報告があります。国同士の経済格差

がこのような事を可能にしているのでありましょうが、例えば、中国が、インドが日本

アメリカ並の食糧、石油等を使い始めましたら世界の食糧、資源はすぐに枯渇してしま

うでありましょう。

《猿回しがたくさんの猿を飼っていました。好物はトチの実であります。

飼い主が朝は三つ、夕方は四つ実をあげようと言ったところ猿たちは大騒ぎを始めま

した。そこで飼い主はそれなら、朝は四つ、夕方は三つあげようと言ったところ、

猿たちは大いに満足いたしました。》

この話を『朝三暮四』と言います。一日に与えられるのはトチの実七つなのですが、

おいしいところを先にいただくことを言い、それにも気がつかない、いや気がつか

ない振りをしている私ではないでしょうか。政治も経済も私達の生活ぶりも、すべて

この『朝三暮四』を『朝四暮三』にすり替えているように思えます。

言葉巧みに後始末をすべて先送りしてはいないでしょうか。

このままでは、五十年先、いや三十年先の子孫に『あの昭和から平成の人間は我々の

事は何も考えていなかった』と恨まれても仕方のない歩みっぷりのようであります。

『念仏の声を子や孫に』のキャッチフレーズは問題を先送りしない、今の私達が

問われている言葉でもありましょう。仏教の縁起の教えは過去、現在ばかりでなく、

未来をも視野に入れることであります。先人が残してくれた大きな遺産を今の欲望に

無駄に使い切ってしまうつもりか!

未来は何とかなると思ってか!後始末はどうするのか!

《食糧、ゴミ、環境、いのち、》遠い未来の、子孫たちの嘆きの声なき声が聞こえ

てはきませんか?