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弁  解

弁解ー「都合の悪いことや過失などをとりつくろうための説明をすること。」とありますが、このようなことが平然と為される時代に私たちはいるようです。毎年のように行われる国政、地方の選挙でもどこまでも、うそ、いつわり、弁解が多いようですね。何が真なのか、こちらの方も疲れてしまい、やがて忘れ、慣れてしまい、追求の意欲さえもそがれてしまいます。
 日本人はいつからこんなに忘れっぽくなってしまったのでしょうか。嘘もつき通せばやがて 本当になってしまうかのようです。サミット、オリンピック、国際的な行事も多いのですが大きな嘘も多いようですね。たわいのないことでしたら冗談で済まされますが、他人をどん底に突き落とすような事も平気で為されるように見えます。オリンピックの招致の不透明さ、競技場、エンブレム、消費税、裏金、パナマ文書、どっかの知事の公私混同など上げればきりがありません。それも国政を担うような゛りっぱな人゛から出てきます。追求されなければいつも泣くのは庶民と呼ばれる多くの人々です。昔からあったことなのかもしれませんが近頃は目に余ることですね。恥知らずの人を「無慚無愧」と申しますが、他に恥じず、自らに恥じない畜生そのものの姿です。あまりにも大きな嘘、又弁解の上手さに見破ることは至難の事です。
 もし見破られても、弁護士などを通じて、いいわけ、繕いの天才です。
 嘘と弁解と、責任をとらないことが、この国のありようなのかと思えます。選挙公約でも出来ないこともあるでしょう、嘘もあるかもしれませんし約束を違えることもあるでしょう。
 そのことは認めるにしても、許せないのは、「間違いました」「ごめんなさい」「できませんでした」という【謝る】ことがないのです。その代わりに出てくるのは【弁解】ばかりです。
 笑って茶化して、責任は他の原因に押しつけてしまいます。芸能人の方がまだ真面目ですね。
 選ばれた特別な人の感覚が強いのかもしれませんね。どこかで中国、北朝鮮を敵国扱いし誹謗中傷そして軽蔑さえもしつつ煽ります。そのことに国中が乗せられ、ヘイトスピーチなどで宣伝します。でもそんな私たちはどうなのでしょう。それらの国を笑える資格がありますか。
 同じようにうそ、いつわり、弁解をしているのは私たちではないですか。しかもこのことに慣れてきますと何が嘘だかも見抜く力さえも失っていきます。なぜそのことを見抜けないのか、それは私たちに指針となる羅針盤がないのです。この羅針盤、方向を示してくれるのが仏法の世界です。状況や時代によってくるくる変わる羅針盤では困るのです。
 いつでも、どこでも、どんな時でも真実を示してくれる針でなければなりません。
 私たちは自分の都合の良い方へ針を向けようとします。しかしそれを仏教では我欲と言うのです。仏教では我欲の捨てる事を教えます。しかし残念ながら我欲は捨てきれないのも事実です。人間の弱さはそこにあるのでしょう。しかしそのうそいつわりの自分を知らされる事が念仏の世界なのです。私たちの煩悩の世界は果てしなく深く、なまじっかの修養ぐらいではびくともしません。そのことを知りつつ弁解は見苦しい事です。とりつくろいの人生はむなしいですよ。一時しのぎにはなっても一人になったときにはどんなに悲しくつらいことでしょうね。 弁解などでごまかさず、そんな世界を乗り超えてしまいませんか。