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貧  乏
 
格差社会と言われて久しくなります。確かにハローワークは大賑わいですし、仕事のないことはつらい事です。それはただ、お金がないと言う経済的なつらさもありますが、社会から取り残され排除されているという思いを持たされることがそれにもましてつらい事なのかもしれません。昔から金持ちと貧乏はありました。今より金持ちと貧乏人がハッキリとわかった事でした。今は誰が金持ちなのか貧乏なのかもわかりません。しかし格差は昔よりあるのです。歴然としてあるのです。ただわかりずらくなったようです。以前は格差はあっても共存が出来た社会だったように思えます。「ドラえもん」の、のび太は中流スネ夫は金持ちジャイアンは貧しい、そんな社会でもそれぞれが輝きながら生きていけたのです。貧乏人は貧乏人の仕事、金持ちは金持ちの仕事、貧乏な医者も存在していました。町の中には貧乏が当たり前のようにありました。ですから格差は昔からあったと思います。しかしこの格差は貧しくても生きていけた時代だったのです。今は貧乏という言葉さえ失われ、その代わりに貧困と言う言葉に置き換えられました。貧困は一度落ち込みますと立ち上がることは難しくなります。どんなにあがき、苦しみ、もがいても、なかなか誰も手を貸してはくれません。なぜならこの「平等」な社会では貧困に陥ったのは本人の努力が足りなかったで済ませてしまうのです。貧困に苦しんでいる本人でさえも「自分が悪い」でおしまいです。自助努力で何とかなる時代ではないのですが、力のある人達はそのような事をあおります。なぜなら不平不満のはけ口が自分に向かってくるのは困るのです。「自助努力」とか「自己責任」という耳障りの良い言葉でごまかされているように思えてなりません。その先にくるのは「自立」出来ないおまえが悪いでおしまいです。
 汗することなくマネーゲームで大金持ちになり、ヒルズ族と呼ばれ、美人モデルやタレントに囲まれ、パーティ三昧、このような社会が健全なのでしょうか。「えっ、それでも金持ちになりたい!」、本音でしょうね。どんなにえらそうな事を言っても最後に「それにつけても、金の欲しさよ」が私たちの根っこのようですね。しかしこのような事を自覚もせずに恥とも感じないのが今の格差社会を生み出す要因になっていないでしょうか。貧困な人々は行き場がなくなっています。ホームレスとなっても人間関係の煩わしさや仕事いやさで「好きでやっている」とまで言われてしまうのです。貧乏が共存していた時代とは異なり異質なモノや、危険と思うものは排除してしまう現状なのです。ホームレスを子供が殺害したりするのはその典型でしょうか。自らいのちを断つ自死の問題も行き場のない悲しい結末です。毎年三万人以上の人が行き場がなくなっているのです。行き場のない人はお寺に来てもらいたいと思います。仏法の中に行き場を見いだして欲しいのです。仏法の役割は恵まれている人より困っている人、強者より弱者への視点です。先日本願寺展が札幌で開かれ、その展示の中に親鸞聖人の「熊皮の御影」がありました。聖人が熊の皮に座しておられる姿です。おそらく聖人が在世のおり、もっとも社会的には一番蔑まされた猟を生業とする人々からいただいたのでしょう。このことは聖人が共に救いの対象されたのは時代の中で社会的弱者と言われる人々だったと思うのです。貧困、社会的弱者、このような方々も生きやすい世の中をめざしたいですね。