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 大震災に想う
 悲惨な、言いようのない震災です。戦後の日本で最大の大震災です。しかも、今も被害が広がっているようでもあります。自分の頭を自然からの報復のように殴られた思いです。
 自然界の力から見れば何と人間の弱いことか、知らされます。私たちは日常の生活の中で便利さを当たり前のように享受してきました。自然界から与えられるものは無限大に存在し、特に先進国と呼ばれる国々は浪費してきました。私たちの暮らしは自然が与えてくれた、石油・ガス・水・天然資源を大量に消費し、快適な生活を作り上げています。ライフラインが寸断されたといいます。つまり電気が入らず、水道が止まり、ガス管が破裂するようなことを言うのでありましょうが、ちょつと昔ならそんなことはなかったのではないでしょうか。
 なぜなら電気もガスも誰もが、使わない生活をしていました。水は井戸水、明かりはローソクか、ランプ、煮炊きは薪か石炭だったからです。スイッチ一つで何でも出来る生活にすっかり慣れてしまい人間の本来持っていたはずだった生きる力が失われたのかもしれません。電気の使用量も三十年前の倍になっていると言われます。膨大な電気を賄うために、効率の良い原子力発電を使いながら、この度の福島原発の事故は想定外の事が起きることを教えてくれました。以前も原発事故が起こってますが何とか食い止めています。この度も被害が広がらないことを願うばかりです。そう言えば「もんじゅ」とか「ふげん」とか、お釈迦様のお弟子の菩薩様の名前がついていましたが、事故が起きないように願ったのでしょうか。人間が行うことに一〇〇%はないということを思い知らされました。人間に完璧が求められないということは人為の事故は必ず起こりうる前提に立たなければなりません。今私たちは問われているのです。
「事故が起きるかもしれないが、便利が良いのか」「不便でも事故が起きない方が良いのか」ということを。今までほとんどか「便利になる方」を選んできました。おそらくエネルギーとして原発をなくそうとはならないでしょう。その代わりにもっともっと安全にのかけ声が大きくなるでしょう。事故が起こったときには又あの「自己責任」が問われるのでしょうか。その便利さを望んだ私たちの責任は感じなくても良いのでしょうか。ものがあって当たり前、金さえ出せば何でも食べられて当たり前、それが当たり前のように思ってはいないでしょうか。
仏教は縁起の教えです。縁起とはすべてのものが支え合っている教えです。それぞれのいのちは異なっていてもすべてが輝きを持って支え合っているのです。そのことをすっかりと忘れていたことをこの度の震災は思い出させてくれました。いのちのつながりの中での私でありました。私たちは何でも「新しさ」「速さ」「強さ」を目標として生きてきたようです。それは便利であり、快適なものでした。しかしそのひずみがあちらこちらで見えてきました。そのひずみを解決するには縁起の教えに導かれ「古く」「遅く」「弱さ」に目を向けるべきだと思います。被災された方々は「天罰」ではありません。まさに「私」の思い上がりの中で尊いいのちを失われていったのです。ただ、ただ、謝するばかりです。「ごめんなさい、すみません、南無阿弥陀仏」念仏申すばかりです。