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                                 団 ら ん 
 一家団らん明るい我が家、等といったことがすっかりと死語になり忘れられたような気がいたします。便利になればなるほど、豊かになればなるほどこのような家庭は減っているようです。地域社会が壊れ、家庭が壊れ、そして学校では学級崩壊、目に見えるモノは強くなっても、このようなモノよりも大切な目に見えないモノがどんどん減ってきます。誰もがこのようなことの大切さは知っているはずなのに、この日本の滅びの足音にさえにも聞こえて来るようです。
 テレビが家庭から会話を奪い、お金を儲けることが、家族団らんの食事風景を奪い、学歴社会が人間関係の気まずさを生み、息苦しさえも感じます。「お金儲けの何が悪いのですか?」と開き直る人、お金を右から左へ動かすだけで、一晩で莫大な利益を生み出す社会、どんなに正当な事を言っても、お金の力でそれを押し潰してしまう社会、弱い人間はモノも申せない社会、そんな現象があちこちで見られます。そんな社会で潰されないように必死でもがき、蠢いている人々の群れが、都会なのかもしれません。働き抜いて、「はい、ごくろうさん。今日でさよなら」とリストラされても文句一つ言えない。これが今の日本の現状だとすれば、人間関係が希薄になるのも当たり前のことですね。家庭のために働き、社会のために働く、何らかの役に立って自分がこの世界に意味のあるものとして存在していることが人間としての本来の喜びであったはずです。それが、我が国だけは、我が会社だけは、我が家庭だけは、最後には我が身だけは、とエゴのかたまりになっています。歯車が何かかみ合っていないのでしょうね。
 今一度このような問題を真剣に考えてみる必要があるように思えます。子供のために、家計を助けるためにパートに出る、ところが自分は子供のためにと思っていても、疲れて帰って来て、仕事で面白くないことがあって不機嫌な顔をして、子供に八つ当たりをする、これが子供のためでしょうか。父親の寝顔しかみれない子供たち、たった一人ぼっちで食事をする子供たち、子供たちのためにと、子供部屋を造り、テレビを各室におき、自分の部屋から出てこない子供たち、そうかと言えば我が子供だけはと、父兄参観日に携帯電話で我が子の授業風景を映す母親、愛情か、甘さかなのか区別もつかない、親が子のためと頑張っても、何が豊かさか、何が幸せか!ヘンですよね。 カラ回りばかりしている光景です。ハウスがあってホームが無いと言われて久しいことですが、相も変わらず加速度的に進んでいるようです。文明とか科学の発達とかは何なのでしょうか。ひょつとするとそれは、本来的ないのちと逆の方向に進むことであれば「滅びの智恵」なのかもしれませんね。今子供たちから、つまづいても、手が出せないとか、アレルギー体質の多さとか、まばたきができないとか、本来的ないのちの強さがどんどん失われていると言われます。学校から帰ってきて「つ〜かれた〜」と告げる子供たち、本来的ないのちをとりもどす努力をだれもがすべきであります。仏教はいのちの根源の尊さを訴え続けています。「勝利者が勝ち取るのは敵意、敗れた人は苦しんで萎縮する、心穏やかな人は勝敗を捨てる」(法句経)とはなかなかなれませんが本源的な幸せが何であったのかを考えさせられる言葉です。仏教の中に「戦え、がんばれ」はありません。勝ち負けを乗り越え、ただ全力でこの人生を歩むことが仏道であります