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                                   奴隷人生

早いものでもう二〇一三年も終わります。年々時間が過ぎていくのが早く感じられるようになります。年齢のせいかもしれませんがそればかりでもないように思います。
 今の時代の慌ただしさや、漠然とした不安が世の中を覆っているかもしれませんね。不正や偽装が当たり前のようになり、悲しくなってしまいます。「ウソ」「いつわり」何を信用したら良いのか、最近日本でどれだけ「謝罪会見」を見させられたことでしょうか。しかし深々と頭を下げても少しも誠意が感じられませんね。語る言葉の裏側に「うそ」が見え隠れします。  後で真実がわかるとあの「謝罪」は何だったのか逆にこちらが馬鹿にされたような気になります。中途半端な謝罪や誠意のない謝罪は謝罪しないより悪いと思います。そのぐらいは私たちはわかります。そんな想像力も働かないのが今の企業のトップなのでしょうか。何かどんなことをしても「勝ち組」にさえなればでありましょう。ばれなければということでしょうか。
「格差社会」と言われる現在は「勝ち組」と「負け組」に別れ「負け組」はいくら努力をしてもその状況から逃れられなくなり結局は無気力になっていきどんどん社会から取り残され「勝ち組」は努力が足りないと言い負けるのは本人の自己責任という言葉でかたづけてしまいます。 しかし所詮「勝ち組」と称される人々もお金の奴隷になっているといえないでしょうか。
 他人の奴隷になるよりも、その自覚がない分気の毒なことです。自分で自分を奴隷におとしめているのですから・・・。国ごと景気浮揚のために「お金を使え、消費をもっともっと」などという時代がかってあったでしょうか。「贅沢しろ、ゴミをもっと出せ」と言われているようなものです。「もったいない」「モノを大切に」などと言えない社会はおかしいのです。
 日本国中奴隷ばかりです。モノがあふれるばかりに豊かになった現代は「使い捨て」が当たり前でいつまでも同じモノを大切に使うことが貧乏たらしく思われてしまいます。
 ブランド品を買いあさり、それらを持っていることを誇らしげに見せたりする人もいますね。 それでいい気分になっているのでしょうかが、それは羨ましいというよりは、あさましいと思ってしまいます。若者にもモノにこだわる人は少なくありません。先日も新しい携帯電話スマートフォンが発売になりますと前の夜より行列を作って会社や学校を休んでも手に入れたがるのは何なのでしょうね。しかしこれもしばらくは満足していますが新しいモノが発売されますと新しいモノをすぐに欲しがります。これではいつまでたってもきりがありません。
 お金、モノに執着しすぎる人生はむなしさしか残りません。なぜならいつまでたっても満たされる事がないのです。仏教はそのような考えやモノを捨てる教えです。
 お釈迦様が二五〇〇年も前に捨てられたモノを今の私たちがいかに血眼になって追い求めているかを考えさせられます。
 それは決して自分の事ばかりでなく時空を超えて地球規模での問題だと思います。
 今のままの生活は地球を苛め、後世の生きる人たちに大きな負担を負わせることです。
「捨てない生活は地球に生きる一人の人間としての義務でもあります。」(クライン孝子)
 奴隷の人生は結局虚しさばかりが残り、人間として生まれた価値さえも見失いませんか?