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道  徳
 
道徳の見直しが叫ばれています。戦後日本人が失ったものとして道徳心の欠如ともよく言われます。教育勅語の復活までとはいかなくとも、それに似たようなことを言われる方もおられます。教育現場に道徳教育を持ち込み、教育再生もされようとしています。
 今は政府が主導しながら教科書の見直しなども行われるようであります。しかも点数までもつけられます。教育現場は混乱するでしょうね。道徳は机の上で押しつけられるものでもありませんし、時の政治家に教えられるものでもありません。理屈でもありません。
 生活に深く根ざした知恵から生み出され、体の中に染みこんでいくものだと思います。
 今道徳教育を考えるのならば、現実の真実の世界、真実の社会を見せるべきだと思うのです。 現在の日本社会は真実とか、現実のあり方を覆い隠しています。いやなもの、汚いもの、くさいもの、すべては隠されています。しかもその社会を清潔な文化水準の高い場所とされているのです。美しく、楽しく、明るく、裏側を見せずに、見ずにすむようにできているのです。 何億という献金を受けながら、「熊手を買いました、何とか還元水の設備をしました」というふうに、他に見えなければ、法律に触れなければ、何でもアリなのでしょうか。そのような方々が作る道徳とはどんな道徳なのでしょうね。「自分たちのために、お国のためにお前たちは死んでくれ」というような道徳かもしれませんよ。三年前福島原発の事故の際、東京消防庁が現場で放水をすることになったとき東京都知事が涙を流し、感動しながらその勇気を称えておりました。そんな映像を見ながら昔、特攻隊が水杯で万歳の声に送られ出撃した風景に重なりました。このような考えが今の政治は道徳と考えているようです。道徳は自らを厳しく律するものだと思います。日本には汚いものとか、臭いものを自らが造りながら嫌うところがありました。そればかりかそのようなものを扱う人々を蔑視し差別の構造を生み出してきました。
 ある小学校で豚肉を子供が食べれない子供がおりました。給食をどうしても残してしまうのです。先生はある日のこと学校に豚の頭を持ってきて先生の机の上に置きました。
 子供は驚いて泣き出してしまったり、大騒ぎになりました。先生は「皆さんの食べている肉はこの豚さんです」と言いました。子供は泣きながらもそれからは豚の肉を感謝をこめていただいたそうです。道徳教育というのはこのようなことでありましょう。
 私たちは人生において様々なものに縛られています。法律、道徳もその一つでしょう。しかしこれらは時代と共に変化していきます。今でこそ言われませんが「滅私奉公」等は死語となってしまいましたが、少し前までは国の最高道徳であったのです。国のために死ねない人間は「非国民」とさえ言われたのです。これを道徳と呼んできたのが私たちの国だったのです。道徳は人間同士が互いに尊重しあい、認め合って生きる規範なのです。その中で宗教は時代に左右されず、場所を選ばず、道徳や法律の根本を為すものだと思います。特に仏教は長い歴史の中で戦争を起こさない唯一の世界宗教です。それはいつでも「いのち」を問うてきたからなのです。「殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ」というお釈迦様の言葉、「世の中安穏なれ」という親鸞聖人の願いこれが道徳の根本に据えられたらと・・・・