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絵  本
 
子どもの頃に親しんだ、ほとんどが絵本でした。五十年を超えた今でも、表紙から、内容、描かれた絵など、くっきりと思い出すことができます。それは、日本昔話であったり、イソップであったり、偉人伝であったり、世界名作であったりでしたが、今の小難しい本よりも、吸収していったような気がします。それも一度ならず、繰り返し読んでいました。
 字だけの本とは異なり絵とも対話するような、不思議な世界でした。読み方も様々です。
 読む本であり、見る本であり、声に出して読んだり、黙って読んだり、読み聞かせ、読み聞かせられたり、年齢によったり、立場によっていろいろなことができるのが絵本です。
 いわゆる大人の本はどんな本でも本ですが、絵本は大きな意味をもっているものだと思います。絵本の世界には、化け物やら妖精やら怪獣やら、虫やら、植物動物やら、あらゆるものが主人公になります。
 私たちが普段から、生命のないものと思っているものに生命を吹き込むのも、絵本の世界ならではです。現実には「どこにもいないもの」「存在しないもの」に生命を与えるのです。
 私たちの人生を本当に豊かにしてくれるものは、姿、形が見えないものによってではないかと思うことさえもあるのです。
 絵本の世界はどこにもない世界で、想像力を豊かにしてくれます。眼を閉じて物を見る、おかしな言葉ですが、その方が物の姿がありありと見えることがあるのです。ある絵本作家の言葉です。「大切なものは眼をこらしてじっと見つめ、それから眼を閉じるとことさら鮮やかに見えてくる」と。しかも子供の時に読んだはるか遠い昔にもかかわらず、今でも鮮やかによみがえってくるのです。
 人間はもしかすると、想像力で生きているのかもしれませんね。
 仏教は感性を大切にいたします。感性を鍛え磨くことを望みます。
 仏教の教え、浄土真宗の生き方は「知りました」「覚えました」ではありません。
 「ああ、そうだったなぁ」「気づかさせていただいた」の教えです。私の「自我」ばかりで生きているために、鈍感で気づかないのが私たちの根っこなのです。子供の絵本を見ながら、今でも新たに多くのことを気づかさせられるのです。偉いといわれている学者先生よりも、一冊の絵本が私の傲慢な思いを打ち砕くことさえもあるのです。その点からは絵本が一冊の宗教書でないかと思うことさえあるのです。絵本の感覚をを、もっとも必要としているのは子供たち以上に大人ではないかと思うほどです。今絵本の持っている心のようなものをすっかりと失っているのが大人たちのようです。いつの間にやら、誰しもが持っていたみずみずしい感性をすっすりと失い、大人になるというのはそれらを一つ一つ失っていく歴史のようにさえ見えます。
 大人が当たり前と思い思考停止していることも子供はどこかで見抜いています。世の中の乱れは、子供や若者ではなく大人の乱れだと思います。そしてそのことにさえも気づかない大人たちの姿ではないでしょうか(勿論私も含めて)。
 絵本恐るべし侮るなかれです。