私達の人生は、いつも何かに惑わされ、迷い悩んで生きています。悩みのない方は、 この世にはおられないでしょう。いやもしおられたとしても、それは一時のはかない 時間でありましょう。お釈迦様が『人生は苦ある』と断言されたように人間が生きると いう事そのものが迷い悩み、そして苦しみでありましょう。この煩い、悩みこそが煩悩 と言われるものであります。煩悩に対する言葉は涅槃であります。煩悩が火のごとく 燃え盛るのに対し、涅槃は火の消えた状態をさします。この煩悩を断ち涅槃を得るため に、先人方は厳しい行に耐えたりしたものでありました。 しかし一時的には涅槃の境地に立ってみても、永続はしません。悟りが、この煩悩を断 つ事といたしますと、ほとんどの人間は悟りとは程遠い位置にいるとしか思えません。 煩悩を身一杯に抱えた私達は次から次へと迷い続けでありまして、しかもそれはまさに 臨終の一時までもひまなく消えることはありません。『心を改めろ』と言われ心が簡単 に改まったり、『悩むな』と言われ悩まなくなったりするならば、何の苦労がありま しょう。それが出来切らないところに煩悩の深さがあります。どこかの教祖が『最終 解脱者』と称して、世間を騒がせております。又ある教祖は『自分は釈迦か、キリスト の生まれ変わり』と称し書かれた本はベストセラ−になったりしております。その他、 足の裏を見たり、ミイラ事件を起こしたり、いったい教祖と呼ばれるかたがたはどう なっているのでしょうね。そんなに簡単に解脱者とか釈迦の生まれ変わりになれるのか おかしなことであります。最終解脱者が欲望むきだしであったり、釈迦の生まれ変わ りが、印税で御殿に住んでいたりしますでしょうか。これらの方々からは煩悩を持って しか生きて行けない人間の悲しみが伝わってこないのです。煩悩とは、身(煩)と 心(悩)が病む事を言います。お釈迦様は煩悩によって苦しむ原因を説かれます。 それは煩悩を持っている自己を知らず、そして、煩悩はけっして外より来るものでは なく、自己の執着心のあらわれであるという事です。自身の煩悩によって自らを傷つけ ているのです。自らを損ない、自らを焼く、決して他によって苦しめられているのでは なく、自分によって苦しんでいるのです。ここに仏教の『自己の責任』の厳しさがある のです。《祈って病気が治るか、願って金が儲かるか、思いどおりの人生が送れるか、 死なずにすむか、》こんなことさえも実現させようとする人間の煩悩の深さを思います。 良寛さんが言われた『災難から逃れるのは、災難に遇うがよろしかろう』の心が大切で ありましょう。悲しい事ながらこの事実をしっかりと受け止めていくのが仏教であります。 『願い事をかなえてもらおう』という虫の良さを見つめていかなければなりません。 仏教の持つ真実性がそこにこそあるのです。煩悩を断たずして涅槃を得る、これこそが 大乗仏教の精神であります。断ち切れない煩悩を持ったままで・・・であります。 『能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃』 (信心よろこびおこりなば 悩みを断たで救いあり)