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  不 合 理
 
 昨年四月のJR西日本の列車脱線事故からもう一年たとうとしています。この事故の時たまたま乗り合わせた同社の社員二人が、死者や怪我人の救助をせずに、会社に普段通り出勤したと伝えられました。又、同社の社員がボーリング大会等を、事故がありながら行っていたと伝えられました。あちこちからこの事に対して、非難の声がわき上がりました。組織と人間の問題なのか、今の日本を象徴している出来事のように思えます。組織が大事なのか、人間を救助するのが大事なのかは、はっきりしているはずです。しかし今の私たちはどうも逆を選んでしまいそうです。組織は決して「人命救助よりも出勤を優先しろ」などとは露骨には言うことはありません。しかし平生からこのような価値観がが熟成されてきたようです。組織のルールに任せていれば「我が身は安全」が知らず知らずにあのような行動をとらせるのです。知らず知らずに、どこかでこの鈍感さに気づかずに生活しています。以前、人身交通事故に遭遇したことがありました。ちょうど朝のラッシュの時間帯で、国道でお年寄りが車に跳ね飛ばされました。
 道路の真ん中あたりにその人は倒れ身動き一つしません。轢いた運転手はあわてて近くの交番に駆け込んで行き、その倒れた被害者は、多くの車が通るのにもかかわらず、誰一人として車を止めて助けようとする人はおりませんでした。それどころか、ゴミでも落ちているように、倒れている人を、車は避けて通るのです。出勤に間に合わなくなるのか、「それどころではない」
と、そのような感じであります。幸いに近くの病院から、看護士さんが来られ、すぐに病院につれて行かれましたが・・・・・しかし、それを見ていた私も、ただ見ていただけだったのです。恥ずかしいことです。情けないことです。いまでもあのときの自分を考えますと、何とも言えない、気持ちになってしまいます。物事を善悪よりも、損得で判断してしまう、そのような多くの人々が、今の日本には蠢いています。最近の犯罪を見ましても、たとえ、捕まったとしても、「運が悪かった」「見つかってしまった」「バレたか」のようです。「悪かった」「すまなかった」が感じられません。自分が一人勝ちすれば良いのでしょうか。何事も合理的に考えるのも大事な事でしょう。しかしこの合理性を追求すればするほど、必ず矛盾が生じてきます。 なぜなら人間自身が、合理的な存在ではないのです。非合理の人間に合理性を求めたところに、人間の不幸が生まれてきたのだと思うのです。北朝鮮の人々も、イラクの人々も、アメリカの人々も、そして日本の人々も、どこの国の人々も、悲しみも、喜びも、怒りも、みな同じように持っている不合理な人間なのです。会社も人々も初めは、会社の理念とか、大きな志とかがあったはずなのに、いつのまにやら金儲けオンリーになってしまいます。自分さえ良ければ、という思いが、いのちが見えない人間になっていく恐ろしさを感じます。釈尊の言葉「すべてのものは暴力に怯える すべての生き物にとっていのちは愛おしい おのが身にひき比べて、殺してはならぬ 殺させてはならぬ」を思います。不合理だからこそ見えてくるもの、考えるべき事があるのです。人間のモノ化、ストップと歩みたいものですね。