ふ れ あ い

 『悲しみに出会うたび あの人を思い出す・・・人はみな一人では生きていけないものだから』 かなり前に流行した中村雅俊さんの『ふれあい』という歌の一節です。
その通りだと思います。しかし時代は逆の方向にどんどん進んでいっているようです。プライバ
シーと言う我が身の守り方、公共心の欠如、何年住んでいても、お隣さんとは口もきいたことがな いという現実、ふれあう友達は携帯電話とテレビだけなのでしょうかねぇ。
家の建て方を見ましても、昔にあって今ないものがあります。それは縁側と軒下と言うことを聞い たことがあります。縁側は訪ねてこられる方との共通の場でありましたし、軒下は『どうぞどなた でも雨宿りに使って下さい』という、けっして自分の家族だけのものではなく、心を広げてまさに 他とふれあう場であったのです。電話にしましても、40年前くらいまでは電話の普及率というよ り、特別な会社や大きな商店、あるいは経済的に裕福な家にしか電話はありませんでした。今のよ うな一人一台などは当時から見ますと夢のようなものですよね。私の家も電話はありませんでした。しかし30メートルほど離れたお隣さんが電話を取り次いでくれるのです。わざわざ忙しい合間に かわらず、『電話ですよ』と駆けてこられ伝えてくれるのです。そう言えばよく次のような名刺までよく見ましたね。『電話(呼)000−◇◇◇◇』と。今考えますと、何という《あつかましさ》なのでしょうか。他の家の電話番号を我が家の電話のように使い、しかも名刺にまでも印刷とは・・・・ですから当時の家庭の電話は必ず玄関においてありました。それはお隣さんや、他人が使いやすい ようにおいてあったのです。そこまでして、他とのふれあいを大切にしたのです。時代の貧困さ、 《他とふれあわなければ生きていけなかった》と反論されるかもしれません。それもあったと思い ます。しかし《あたたかさ》がそこにはあったように思えるのです。本来であるならば幸せになるべん便利さが逆に人間関係をギスギスしたものにしてしまったのかもしれませんね。
便利なことが幸福とはいえないのでしょう。もしそうであるならば今の日本人は幸せの頂点にいる ようなものでしょうが、そのような雰囲気すらもないのが現実ですね。昔から幸せの条件として国 の違い、宗教の違いなどを超えて共通の不文律があります。それは『他のために生きよ、他の立場 を考えよ』ということであります。キリスト教では『何事でも、自分にしてもらいたいことは、他 の人にもそのようにしなさい』と又論語では『己の欲せざることを人に施すなかれ』そして仏教で も『自利利他』そして『布施行』と他への態度は明確に示されてあります。『情けは人のためなら ず』そして『袖振り合うも多少の縁』とふれあうことこそが人間の幸せの原点でありましょう。
若者であっても都会に憧れ孤独な生活を楽しんだ後に残るものは、ふれあいを渇望する気持ちであ りましょう。老人問題といわれるもの、そしてあらゆる社会の問題はこのふれあいが出発であるよ うに思われますが・・・・