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ふ る さ と
かって「ふるさとの山にむかいて」と石川啄木は謳い、「ふるさとは遠きにありて思うもの」と室生犀星は謳いました。しかし今は時代の速さなのか急激に変貌をとげこのようなふるさとにはめったにお目にかからなくなってしまいました。二十世紀から二十一世紀はふるさとを変えてしまった時代だったのかもしれません。もう四十年も前に鶴田浩二さんが歌った「生まれた土地は荒れ放題、今の世の中右も左も真っ暗闇じゃございませんか」が現実となってしまいました。次のような話をテレビで放映しておりました。
【緑なす山あいに過疎の村に今は一人で住んでいる九十歳にもなるお婆さんがおります。山の上にある一軒家にお爺さんはもう数年前に亡くなり三人の子供たちもそれぞれ独り立ちをして大きな家に今はたった一人で畑仕事をしながら暮らしています。このお婆さんのところに年に一度同じ村に住んでいるお年寄りが二人訪ねてきます。三人のお年寄りはお婆さんが二人、お爺さんが一人です。みんな同じ歳です。三人はこの村の尋常小学校の同級生なのです。もう誰も残ってはいません。年に一度集まって同級会をするのです。家族の誰よりも長いお付き合いなのです。三人はもちろんそれぞれが異なった人生を歩んできました。光もあり陰もあり苦労も戦争も悲しい別れも経験しています。村の暮らしもすっかり変わりました。けれども三人のお年寄りにとってのふるさとはすっかり変わったふるさとではなく、尋常小学校に共に通い過ごした時間なのです。風景や境遇は変わったかもしれませんが変わらないのは共に想う時間なのです】
 悲しいことかもしれませんが、ふるさとそのものの場所は今では「そこにある」「いつもある」ものではなく、場所的には「今はもうない」ものなのかもしれません。
 その意味からしますとふるさとは過ぎ去った時間の中にあるものだと思います。時間は一面は記憶ということと同意義でしょう。風景が変わっても「なつかしさ」の中に暖かさを感じるのはそのようなことでしょう。しかしそのようなふるさとにしてしまったのは「私」なのです。
「私」の心がそうしてしまったのです。【世の中はおのが心の姿なり 善きも悪しきも外になくして】なのです。ふるさとを変え、世の中を変えそのようなことを嘆き他を非難することは簡単です。しかしそれは私の根っこにある心が変えてしまったのです。ふるさとというのがそこで生まれた土地でもなく、育った風景でもなくそこに生きた時間にしかないというのがこの百年の時代の流れだったようです。今はその過ぎ去った時間の中にしかもうふるさとを持ってはいません。しかしそのようなふるさとを確かめつつ私を支えている時間のふるさとを思うのです。その記憶というものは過ぎ去ったものではなく、過ぎ去らないからこそ記憶なのです。
 とどまっているからこそ記憶なのであり、自分を支え続けているからこそ記憶なのです。
 仏法を聞くということが懐かしさを感じるときがあります。それはふるさとを思う懐かしさに似ています。うそ、いつわり、へつらいのない世界こそが懐かしきふるさとなのだからでしょう。いつでも、どこでも変わらない真実世界の共通項がそこにあるのです。
 時間の大切さをもっと見直していいのかもしれませんね。