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                 布 施 の 心

スマトラの大津波、新潟の地震、大雪、温暖化の影響か異常気象が毎年のように世界を襲っています。ボランティア活動、支援も盛んに行われているようです。布施とは物や心を贈るということでしょう。しかし布施の成立は施す者、施される者、そして施しの対象となる物などが清らかでないと布施とは言えないのです。これを三輪清浄と言います。そうしますとどうも私たちが行っている布施の行は怪しくなってまいります。差し上げたが失敗した、というような物惜しみの心が残ってはいなかっただろうか、又普通なら捨ててしまうような物を差し上げていい顔をしていないだろうか、戴いた方も独り占めして多くの人に分け与えることをしないでいるのではないだろうか。著述家の犬養道子さんの話です。
 道子さんが小さい頃、年末になるとお母さんは道子さんを連れて毎年孤児院へ慰問に行っておりました。その時に必ずおみやげをたくさん持って行きます。それも道子さんが大事にしている人形やおもちゃを持って行くのです。子供心に「どうして」と思ってお母さんに聞きますといつも次のように言ったそうです。「自分のいらないものを人さまにあげても、差し上げたことにはならないのよ」そしてこうも付け加えました「人の役に立ちたいと思うなら自分も少しは痛い目をみなけりゃね」と。私たちが人さまにものを差し出すとき、自分の不用になった物 に限られてはいないでしょうか、「惜しいな」とでも思いながらあげているのではないでしょうか。これを戴いた人が助かる事はあります。喜ばれることもあるでしょう。
しかし自分にとって入用なものと不用なものを手放すことの気持ちの段差は大きいものがあります。自分に痛みを伴わない贈り物は人の心には響かないでしょう。
「こんな大事なものを」と相手に贈り主の心が届いたとき、その贈り物は相手に喜ばれると思います。そうして自分の偽善的な気持ちからも解放されます。どのような人でも誇りがあるのです。どんな欲しい物であっても余り物を与えられた時には喜びよりも屈辱感の方が強くなってしまいます。差し上げても恨まれることになりかねません。しかしそうは言っても完全な布施はなかなか出来そうにありません。たまればたまるほど手放したくないのがお金だそうでありますし、たまったら少しでも減ると不安になってくるのも人間の性のようなものでしょう。
 でもそのような「私」というものをよく知っての布施もあるのではないかと思うのです。その事を知らずに「してあげてやったのだ」「あんなに多くしてやった」等の思い上がりだけは持たないようにしたいものですね。「つまらない物ですが、なにもできませんが・・・」差し上げる方が逆に負い目さえ感じる心が仏教の布施精神でありましょう。貧しき時代は「持ちつ持たれつ」が生きていましたが、豊かさは、すっかりこの事を忘れさせました。
 人の憂いに寄り添うからこそ「優」しくなれるそんな時代になればなぁと感じています。
「おかげさま、もったいないことで・・・」どんなに豊かになっても、幸せを感じ取れる大切なことだと思いますが・・・・