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不 信 感
 
今年も、年の暮れを迎えましたが、何もかもが悲しいながら、不信の世の中のようです。信ずべきものがないというのは何ともいえない悲しいことです。誰もがそんな世を望んではいないはずなのにどんなことをしても、「勝ちさえすれば、生き延びるために」という訳のわからない大義名分をたてて信頼などは平気で踏みにじってしまいます。子どもに「いじめをなくせ」と言っても大人の社会が子どもの世界に反映していることに気づかないのでしょうか。
 いや大人達もつらいはずなのです。変化が激しい世の中がこれに輪をかけます。
 変わらないものを持つことは「時代遅れ」「ズレている」と揶揄されます。
 先日のアメリカ大統領選挙、日本の政治、東京都の豊洲問題、オリンピックの問題、全てが不信感でみちています。お互いに自分と対峙する人には、悪口雑言、誹謗中傷、ヘイトスピーチ、粗悪な言葉で罵り合う、何でも勝ちさえすれば「何でもアリ」のようですね。そして又追い打ちをかけるようにマスメディアが面白おかしく報道します。そうすれば視聴率、購読数が上がり、めでたしめでたしということなのでしょうか。報道する方もする方、喜んで見る方も見る方です もちろんその中に自分もいます。しかしこのようなことは結局は自分を傷つけているだけのように思えます。お釈迦様の時代にもお釈迦様の教えが広まるのを妬み、罵る人もありました。ある日お釈迦様はその人のところに行って次のように話されました。
 「あなたの家に訪問客があった場合、ご馳走しますか」と尋ねられました。その人は「もちろんご馳走する」と答えましたので「お客がそのご馳走をいただかなかったらそのご馳走は誰のものになるのか?」と言いますとその人は「もちろん自分のものになる」と答えました。そこでお釈迦様は「あなたは私に対して、悪口を述べられましたが、私はそれをいただきません。だからその言葉はあなたのものにしかなりません。私があなたに対して悪口を言い返しますと、悪口の交換になってしまいます。だから私はあなたの悪口はいただきません」、お釈迦様は答えたということです。
 言葉の暴力が蔓延しています。身勝手な解釈や、相手にただ負けないというようなことだけを目的にして自分を正当化します。「リスペクト」(尊敬し、敬意を表す)という言葉が最近よく使われますが、敵対する相手に対してこんな気持ちを持たれたらと思います。
 相手を傷つけることは結局は何も生み出さず自分も傷つけることになるのですから。
 「天上天下唯我独尊」というえ釈迦様の誕生偈はあらゆるいのちはもっとも尊いという宣言です。人間宣言と言うよりあらゆる「いのち」の宣言です。自分のいのち、他のいのちを分け、都合の良い「いのち」ばかりを求め続けていないでしょうか。そこに争い、殺し合い、戦争まで起こしてしまうのです。不信という病は私の心が幻を見るようなものでしょう。
 不信感を拭うのは私のみが「正しい」という衣を脱ぎ捨てなければならないのです。テレビの討論会でも国会の議論でも「私は正」「おまえは間違い」かあまりにも多いのです。(聞く)ということにもう少し謙虚になってもと思います。「自分こそが正義の味方で、逆らうやつは皆敵で話は聞きたくもない」では困りますね。