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  普  通
 
「普通の人」、「普通の子」、よく言われる言葉ですが、「普通」とはいったい何なのでしょう。
 最近の異常と言われる事件が起こるたびに、「普通の人でした」、「普通の子供でした」等と、よく周りの人は言います。「家ではおとなしく、まさかこんな事件を起こすなんて・・・」「学校では目立たない、まさかそんなことが・・・」と、親も近所も学校も気がつかないことがよくあります。「ウチの子が何故」とは、本の題名だったでしょうか。愕然とします。普通がわからなくなってしまいます。ところで一人一人を普通とそうでない子供に、分類できるのでしょうか。一つ一つの家庭を普通の家庭とそうでない家庭に分けられますか。どっかで線引きが出来ますか。外見的には「普通」と見えても、どこの家でもいつ「普通でない」事が起こってもおかしくない状況に今はあるように思えるのです。それにもかかわらず、多くの家庭が「自分の家だけは普通」と、考えていることに落とし穴があるようです。今の日本では父親は毎日残業ばかり、母親はパート、子供はテレビゲームづけ、犯罪から子供を守るため携帯電話を持たされ、そして夜遅くまで塾に通い、家族全員で食事も出来ない状態、これが「普通」なのです。過(か)激(げき)な受験競争、格差社会、携帯電話、インターネット、テレビ、情報に事欠かない社会状況、正面から向きあえない家族、真実の愛情の飢餓状態がここかしこに見られるようです。
 子供向けの一冊に「コブタのきもちもわかってよ」(小泉吉宏)という絵本があります。
 【小学校一年生の主人公のコブタ君が、最初の一頁から、親に強引に手を引っ張られています。「ママはいつも速く歩きなさいという。ボクは犬のことや、町のことをもっとゆっくり見たいのに・・・」というコブタ君の独白、自分の部屋の隅っこに立っているコブタ君の絵には「いじめられていることをパパに話したら、もっと強くなれって言った。強くなれるほど強かったらボクはいじめられていないよ」、学校から帰ってランドセルを置いたコブタ君の絵には「今日、鉄棒で、さか上がりが出来たんだよ」と、でもママは忙しくて聞いてくれない。今日さか上がりが出来たのに・・・・そして、ある日コブタ君はとうとう「おなかがいたい」と言って寝てしまいます。】このような絵本です。どうでしょうか。誰しもが経験はあるようですね。
 子供と正面から向きあえない親の姿が描かれています。二十世紀の科学発達は便利さをもたらしてくれました。しかし科学発達の負の部分も見えやすく目に見える形でした。公害、交通事故、薬害環境問題等です。しかし、二十一世紀の情報革命、技術革新は何をもたらすのか見えずらくなっています。直接的には公害のように人間の生命に危害を及ぼすことがないように見えます。しかしそうなのでしょうか。情報技術は発達しても、人間関係の希薄さはいまだかってない時代になっています。裸で向きあう事が苦手であるとか、携帯電話でしか話が出来ないという現象があちこちで見られます。「腹が立つ」「頭にくる」ということが「キレル」という鋭い言葉になつてしまいました。こんなことが「普通」であるはずはないのです
 自分を冷静に見つめる事、どつかで忘れてしまったようです。仏法を聞く、というのはただこの事です。「自分に執着」し、狭い目でしか見られない私に大きな視野を与えてくれます。
 角度を変えて、立つ位置を変えて立ってみる、仏法を聞くのはそのような世界です。