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学  問
 学問とは、問いを学ぶということであります。最近は問うということよりも先に結論や、答えが用意されているようです。簡単なことであっても、それを問い続けていったのが人間の歴史のように思えます。「なぜ」という問いを中心として発展してきたとも言えます。
「インテリ芸能人」とか「高学歴タレント」がテレビのクイズ番組を賑わしておりますが、それは答えがあらかじめ用意されており、解答者はそれを選ぶだけです。それは問う世界ではないのです。今の受験でも問うことではなく、選び、暗記することを求められているようです。問いを学ぶということは、色々と迷うことでもありますし、失敗もすることでありましょう。思い悩むからこそ、人間は努力するものです。思い悩まない人間は努力をしていないことにもなります。迷いや失敗を怖れることはないのです。
 考えますと人生は迷いそのものといってもいいくらいです。子供には子供の悩み、青年には青年の悩み、老いても悩みは尽きません。幾つになっても悩みの種はつきません。
 ある年齢に達すれば迷いや悩みが少なくなるかと若い頃は考えていましたがそこからは遠いところにいる「私」でありました。「四十不惑」という言葉もありますが、どうもそんな思いにはなれませんね。仏教では「転迷開悟」(迷いを転じ悟りを開く)を目標に掲げています。
 しかしこの目標を達成することの難しさを感じますね。真剣に努力すればするほど悟りを開く難しさを思います。私たち浄土真宗の宗祖親鸞聖人のご苦労もここにあったと思います。
 少々の努力や修行ではどうしようもない自己の姿を見つめられたのです。
 すればするほど、仏になる世界から遠ざかる自己の発見でありました。
「いかなる行をもおよび難ければ地獄は一定」という厳しい自己に対する洞察があります。
 何かを成し遂げようと思うときには人間は迷うものです。大きな目標であればあるほどあれこれ思い悩みます。それが努力を生み重い決断をさせたりするものです。逆に言えば迷わない人間は何の努力もしていないのかもしれません。努力しなければ迷うことさえもありません。
【凡夫というは、無明煩悩欲も多く怒り腹立ちそねみねたむ心多く ひまなくして臨終の一念に至るまでとどまらずきえずたえず】親鸞聖人は、迷いの私たちこそを救いの目当てとされた阿弥陀如来の働きに、迷い続けて生涯を歩む事をしめして下さいました。
 昔コマーシャルで野坂昭如さんが「ソ・ソ・ソクラテスかプラトンか、ニ・ニ・ニーチェかサルトルか、みーんな悩んで大きくなった」という歌がありましたが、誰も、世界の偉人たちは迷い悩み続けてきたのです。迷うことを苦にすることはないのです。迷うと言うことは真剣に努力していることの裏返しです。生きることは生涯迷い続けることです。
 迷い続けることにもっと勇気を持っても良いと思います。親鸞聖人も晩年になるまで苦労、悩み迷いの連続でありました。八十歳を過ぎてからの念仏の友との別れ、長男の義絶事件、家族への恩愛の情など、赤裸々に告白されています。
 その中で和讃などで、それだからこそ救われる喜びを人生賛歌として仏法に出遭った喜びを高らかに謳いあげられています。