がんばれ!

『がんばれ』という言葉はまだ立ち上がれる余力が残っており気力もある方にとっては大変な励ましとなり頼りになる言葉だと思います。とくに実現可能な目標であればなおさらのことでありましょう。ところで私たちは他者にたいして実現不可能なことに対してでも『がんばれ!』と言ってはいないでしょうか。私自身も末期ガン患者の見舞いに行き幾度『がんばれ!』と言ってきたことでしょうか。また実現がとっても不可能と思われても『とにかくがんばれや!』などと口先で言ってきたことでしょうか。そんな時、帰ってから自己嫌悪に陥ってしまいます。そうなのです、人生においては絶対に実現が不可能であり、頑張ってもどうにもならないことはあるものなのです。
頑張れば実現が可能なことの方が実は少ないのかも知れません。皆様は人生が上手に思った通りに運んでいますか? おそらくほとんどの方が頑張っているにもかかわらず『うまくいかない、思いどおりにならない』と嘆息しているのではありませんか。僧侶という立場上よく臨終勤行(枕経)に立ち会います。長い間の連れ合いを亡くされた方、親を亡くされた方。子供を亡くされた方、様々です。そんなとき残されました方に『がんばれ!』と言えるのか疑問に思えるのです。
『がんばれば、連れ合いは還ってくるのですか』『がんばれば、子供は生き返るのですか』と反問されれば返す言葉はありません。本当の絶望に打ちひしがれている人々、どうしようもないと絶望している人々にとって『がんばれ!』は冷たい言葉だと思います。そのようなぎりぎりの立場におられる人に何らかの役に立つことがあるとすれば、その人の心の痛み、悲しみに対して、『わかってあげる事のできない私』『手助けの一つもできない私』と自己の痛みにただ恥じ入り、涙することだけしか出来ないのではないでしょうか。何も言わない、いや何も言えない、ただ手を握りしめ悲しみを共にじっと共感していくことしか出来ないと思います。そしてため息を共にするだけです。このことを仏教の言葉で《悲》と言います。慈悲の《悲》であります。心の深いところからあふれ出るため息のような感情のことです。例えて言えば誰が見ても子供が立ち上がれない絶望にある時に、本当の親ならば『がんばれ』とは言わないと思います。黙って傍らで涙を流し、子供と共に絶望、悲しみをを感じようとすると思います。人間には出来ることと出来ないことがあって、出来ないことがあると知ったときに《悲》の思いが生まれて来るようです。ボランティアで他者を助けようとする、しかしどんなことをしても助けて上げることが出来ないと知ったときに初めて《悲》に気づきため息をつく、しかしそのため息こそが、絶望感に打ちひしがれている方にとっての大きな救いになっては来ませんでしょうか。他人の悲しみを自分が引き受けることは出来ません。このような人間の無力さを感じることが《悲》であり、この思いこそ、この乾ききった現代に潤いの一滴を与えてくれるものなのです。このり潤い、深いため息は孤独に自分の殻に閉じこもり、耐えている方の心に届くと思います。『がんばれ!』も大切かもしれませんが人間の究極には『悲』が重さを持ってくると考えますが・・・・・