印刷はこちらからどうぞ

 
 
                          疑  心
 
北朝鮮からミサイルが飛んでくる、人工衛星かテポドンか、はたまた摩訶不思議な飛翔体か、気持ちが悪い、迎撃ミサイルだ、いや攻撃される前に発射基地へ先制攻撃だ、はては日本も核武装しなければ危うい等、安全保障に関して議論がにぎやかな事です。どこまでが本当なのかもわかりません。結果的には何事もなかったように日常は過ぎてまいります。戦後、吉田茂首相が「戦争は国民に危機感を持たせれば始まるのです」と述べたと言われます。どこの国でもこの危機意識から戦争は始まるようです。戦争を始めたい人間はこの危機意識を煽り続けます。話に尾ひれをつけて、しかもウソまでも混じえながら・・・・
 イラクの大量破壊兵器、テロリストのウソ、「危ない、危ない」と叫び続け、武器を売りつけ大もうけする武器商人の暗躍、今の日本でもこのような事が行われていないでしょうか。
世の中はセキュリティという危機意識が盛んです。流行と言ってもいいかもしれません。
「転ばぬ先の杖」とばかり「これを持っていれば、家の防犯にはこれを・・・安心です」等と、子供に携帯電話を持たせ今いる位置を確認できるようにし、防犯ベル、家中施錠が出来るように完璧にし、「これをつけなきゃ危ない」と売る方も危機意識を煽り立てます。しかしセキュリティが充実した社会が住みやすい世の中なのでしょうか。どうも私には居心地が悪いのです。どこでもテレビモニター等で、どこで監視されているかもわからないのです。個人情報保護を謳いながら、別な面では隠し撮りを公然としているようなものです。地域の復活とか、町内への参画など叫ばれていますが、現実には逆方向へ向かっているようですね。お互いになるべく信用しない方が安全ですよ」と言われているようです。その事がお互いがおかしな情報に振り回され「疑心」の状態で生活しているように思えるのです。「今の若者は何を考えているか分からない、キレやすい、危ない」「あそこのウチは危険だ」、そんな情報や噂が、信頼の網をズタズタに切り裂いていきます。人間が人間を信頼出来なくなることは、あまりにも淋しく、人間は人間性を失います。このことは小さな家庭の中でのことから、大きな国同士の事でも同じでありましょう。「どこもかしこも危ない、もう人は人、オレはオレ」と考え始めたとき他とのつながりは失われ、暗黒の世です。そんな世の中を作るために人間の歴史があったのでしょうか。安心して暮らせるのはこんなことだったのでしょうか。人が人を尊び、すべてのいのちが関わり合い、支え合いつながり合っているのが「いのち」そのものなのです。仏教の縁起の理法は「私に関係のない、いのち」など、どこにもないと示します。こうなりますと恐ろしいのは凶悪犯などではなくこの私の「疑心」なのかもしれません。親鸞聖人は「信心」を「真心」と言われました。信は真であり、この心が暗闇を照らす光とも言われました。お互いの「疑心」は凶悪犯罪を逆に生み出し、差別を生み、様々な問題の原因になっているように思われるのです。裁判員制度が始まりましたが、人が真を持って裁ける裁判であって欲しいと願っています。
 決して恨みや、復讐の裁判であってはならりません。精神的な閉塞感が満ちあふれているこの世の中で、信、真の回復を呼びかけたいと思います。人間性の回復を叫ぶならこの私の人間性の回復を見つめるべきでしょう。「疑心」はその事への大きな障げになっているのです。