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ゴ ミ 屋 敷

 ここ数年ゴミ屋敷が話題になっています。異臭騒ぎやら、公道にはみ出すほどのゴミは近所隣にとりましては、迷惑この上もないことでしょう。しかしこんな事を聞きました。
 そのゴミを集めている人にとっては、それはひよっとしたらかけがえのないものかもしれない、大切なものであって捨てる事がで出来ず、貯めていたらいつのまにかゴミ屋敷になってしまったのではないかということです。何でも消費は美徳とばかり、営々と買い集め平気でまだ使えるものを捨ててしまう私たちが逆に問われているのではないかというのです。
 ゴミ問題は依然として深刻です。分別やらリサイクル、再利用の方向性を探っていますがゴミの集積場を見ますと、相変わらずの山ですね。モノを大切にと言っても大切に使ったらモノが増え家が狭くなってしまいます。難しいことですね。「もったいない」が「MOTTAINAI」と書かれ、世界の言葉にもなりましたが、それを発信した日本がその精神をはたして発揮しているでしょうか。収集家と言われる方がおられますが、私たちにとって「何で、そんなものを集めているのか」と思うこともあります。しかし当人にとってはそれこそが価値あるモノとして受け止められているのでしょう。真の収集家とは蓄財とか投資ではなくそのようなものかもしれませんね。他人から見るとガラクタでも本人にはお金に換えられないものなのかもしれません。強制収容所「アウシュビッツ」の写真の中で送られてきたユダヤ人から取り上げた品物が写っていました。それはカバン、義歯、衣類、眼鏡、義足、女性の髪、値打ちのあるあらゆるものがありました。親衛隊はそれらの中から価値あるモノ(金目のもの)を選別し再利用にまわしていったのです。その中で彼らが一顧だにしなかったものがあります。それは色あせた写真の山でした。収容所に送られてきた人々の家族、子供、恋人 花嫁姿の娘、等が写っていました。
 持ち主にとっては何ものにも代え難い大切なものでしょう。しかし他人にとっては何の値打ちもないのです。価値というのはこれほど人によって異なるということなのです。皆様は「自分に価値あるもの」は何と答えられますか。今の日本は一様に価値あるモノを高級品、ブランド品、又銘柄などを中心に回っているように思えます。個人的ではなく「みんなが価値あると言うから・・・」であります。価値あるモノを自分の頭ではなく、他人から与えられ画一化され、それに乗り遅れないように必死になっているようですね。自分にとって本当に値打ちのあるものを見つけづらくなっているのかもしれませんね。テレビや週刊誌がそれを後押しもしてくれるのです。仏教は「自灯明・法灯明」(自らの足で、法を拠り所として歩め)です。
価値を生む基準は外からではなくそれを決定づけるのは「自分自身」ということでしょう。
 ものに価値があるのではなく、それぞれの人間がものに価値を与えていくと言うことです。
 「身自当之・無有代者」(人生の中で苦しいこと、悲しいことに出遇っても、誰も代わってくれないし、自らこの苦しみ悲しみを引き受けて生きなければいけない)ということなのです。
 代わることの出来ない人生を自らの足で歩み続けたいものです。