合 理 主 義
 もう二十一世紀まであと半年、時代の速さは、いよいよ増しているようです。

時代からの落ちこぼれにはなりたくないとは思いましても、《しんどいナァ》

と感じることであります。

世界大戦が終結して五十五年にもなります。もう『戦争を知らない子供達』と言う

よりも、戦争を知らない大人たちが多いのです。日本は戦争中の反省からか、戦後は

『精神教育』から『合理主義教育』へ向かったように思われます。しかしその『合理

主義』が大きな曲がり角に差しかかったのが『今』ではないでしょうか。私達の身辺

を見ましても、無駄をなるべく無くし、生活に必要なものだけを残してゆきます。

合理化された社会は効率的な社会でありますし、何かと便利であります。計算可能で

ありますし、予測さえも出来得る社会でありましょう。コンピューター社会はまさに

その象徴でもあります。合理化は一概に非難されるべきものではありません。

しかしこの合理化がいつしか、私達の心の中にまで浸透しはじめているように思え

るのです。モノや機械であるならば、合理的に割り切れますが、人間は割り切れま

せん。どんなに割り切ろうとしても、引っ掛かりが残るのです。人間は悲しみに

打ちひしがれ、不安におののき、喜んだり悲しんだり、感情を持っています。

しかもその感情は他人とは共有出来ないのです。私の悲しみは私だけの悲しみで

あり、私の喜びは私だけの喜びなのであります。私だけにしかわからない《心》

を持っているのです。変わってもらえない心であります。この『個』の心を無視した

ところが現代合理主義の落とし穴になっています。『赤信号、みんなで渡れば怖く

ない』『みんなと一緒』が、どれだけ人の心を傷つけているでしょうか。みんなと

一緒でない人はどんどん疎外されていくのです。『いじめ』『家庭内暴力』『学級

崩壊』、私の心は『合理的』ではないのです。『私は私』なのです。ルーズソッ

クス、ガングロ、サンダル、携帯電話、これらは個性の発揮ではないのです。

逆に均一化されている証明のようなものです。おしゃればかりではなく、同じような

家に住み、同じ雑誌新聞を読み 同じテレビを見る、ですから、今では幼稚園児と

大学生が同じ話が出来ると言います。その共通の話題はマンガであります。

しかし人間はいつか必ず孤独になります。それは人間は『死』を内包しているの

です。変わってもらうことは出来ません。他人の死を合理的に割り切れても自分の

『死』は決して割り切れるものではありません。私の死は私にとっては大問題です。

合理的に割り切られてはたまりません。しかし私達はなるべくその『死』を見ないで

おこうとしているようです。つまりゴマカシの『生』を送っているのです。『死』を

遠ざけ、不潔、不浄なものと処理し、先送りばかりしながら『生』を貪って生きて

はいないでしょうか。こういう立場から人間を見ている限り本当の人間は隠されて

います。主体性は見失しなわれています。『私』自身の見つめの大切さ、本当の

自分の発見』そして『仏法』で問われるのはまさに『今』なのです。

仏法は『自分探しの旅』なのかもしれませんね。落とし穴に落ちないように・・・・

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