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 破 壊
 
地球温暖化が叫ばれて久しくなります。京都議定書なるものもどこにいったやら、日本も目標値には到達できない状態のようですね。大きな国が経済論理が優先し、議定書には調印しませんでした。放射能ばかりか、二酸化炭素、北極海の温暖化、オゾン層の破壊など地球規模で考えていかなればならない問題ばかりです。地球自身に以前は自然回復の復元能力がありましたが、現在は回復不可能の事を人間が為しています。いったん環境が破壊されれば、止めが無く行きつくところまで行ってしまう有様です。東日本の大震災は大きな自然災害でした。
 人間は大きな悲しみを背負い、取り返しのつかないことでもありました。しかし自然の目から見れば起こりうるべくして起きたことなのかもしれません。人間は傷みましたが、自然は回復するのです。しかしながら原発の放射能事故はどうなのでしょうか。二年過ぎた今も、解決のめどは立ちません。いや、今も被害は拡大しているようです。人間の起こす破壊はこのことに象徴されています。自然環境が残されている地域がこの日本でもどんどん狭まっています。 それは都会ではなく「イナカ」と呼ばれる場所です。自然紹介でテレビででも放映されなければ見られなくなっています。身近なところにこの場が失われたことは私たちが感動の心も失っていったことと同じように思えます。「人智」の及びもつかない大自然は私たちに大きな感動を与えてくれます。人間がその自然を破壊し、便利さと経済論理のみを考える愚かさをもっと考えて良いと思います。私たちの心を感動させてくれる大自然を破壊していったら、私たちは一体何に感動するのでしょうか。私たちがこの世に生きていられるのは大自然の力によって生かされているにもかかわらず、その自然が見えにくくなっています。いや見ようとしていないのかもしれません。空気、食物、エネルギー、すべて自然からのいただきものです。
 このことを人間の傲慢さは、すっかり忘れ破壊の限りを尽くしています。
 今私たちは後世の人間に何を残すか問われています。
 自然というのは「自然(じねん)」という仏教の用語です。親鸞聖人は「自然(じねん)といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひ(自力による思慮分別)にあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり・・・弥陀仏は自然のやうをしらせん料(ため)なり」(自然法爾章)と述べられ自然の大きさ、その中で人間は生かされると宣言されました。私たちはその事に気づく事が本当の喜びを味わえることでしょう。オーストリアのノーベル賞受賞者の動物行動学者コンラート・ローレンツ博士は自然荒廃を嘆きつつ「私たちの住んでいる外部環境が破壊されるだけではない。人間自身の内部でも、人間をとりまく創造物や美しさや偉大さをおそれる気持ちが破壊されている」と述べられました。限りなき欲望のために自然環境を壊すだけでなく、自身の内面までも破壊しているというのです。人間がかけがえのないもの、又自然に対する畏怖の心を失ったとき心の内面はズタズタになります。こんな現象が今あちらこちらで見受けられます。いじめ、虐待、差別、どれも自然が育んで下さる畏怖の心を見失っているように思えてなりません。次世代に残すべきモノとしてこの心を伝えられたら・・・・