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                 発 砲 率

今年は、終戦六十年を迎えます。日本は一応は六十年間戦争を経験をしませんでした。
 しかし戦争の経験も、いやな思い出も次第に風化していき、戦争を体験された方でもこれだけの長い間の時間が、逆に戦時中の思い出を懐かしくさえ感じておられる方も多いのではないでしょうか。今の戦争はこれだけ情報網が発達していながら、そのことでかえって真実が見えずらくなっているように思えます。実際の戦闘においても、空爆などでの、血まみれの人々や、多くの死体などは見せることはありません。六十年前にエノラ・ゲイに乗ってリトルボーイという爆弾を広島で人類に向かって落とした人は下の悲惨な光景は見えないのです。今のイラクでも、アフガンでもきっと同じような光景があるはずなのです。イラク爆撃でどれだけの非戦闘市民が犠牲になっていることでしょうか。
 「人殺しの心理学」という本にあるのですが、その中に発砲率という言葉がでてまいります。
 何とも言いようのないおぞましい言葉であります。これは戦争において兵士が敵に直面したときにその敵に向かって銃を発砲した兵士の比率のことです。第二次大戦までアメリカの兵士の発砲率は十〜十五%、残りはいざ敵を前にしても、空に向かって撃つか、狙いをつけてからちょつと外すか、そもそも撃たないかであったとあります。十五%とは百人中十五人の兵士か゛敵に発砲をし、残った八十五人は敵に向かって発砲をしなかったことをあらわしています。人殺しの話ではありますが、何かホッとするものがここにはあります。それより以前の南北戦争においては、戦死者を調べたところ銃に弾を込めたまま発砲せずに死んでいった兵士が数多くいたようであります。他人を撃って殺すことよりも自らが撃たれ死んでいったということです。それが戦争においては効率としてははなはだ悪いわけです。そこで心理学とかあらゆる訓練において発砲率を上げようとしたのです。その訓練の成果として、アメリカでは朝鮮戦争では五十五%ベトナム戦争では九十五%に目標を設定し達成したと言います。兵士の首を固定して残酷なビデオを見せる、人の頭に似たキャベツにケチャップを入れてそれを打ち抜くなどの訓練で洗脳し、撃つことを何とも思わなくなるような人間を造っていったのです。これが立派な兵士と言われているのです。しかしこれらの兵士の帰還後の生活は惨めをきわめ、凶悪犯罪の大きな原因になっています。敵のいない日常までもいつでも敵の幻想を抱き続けるのです。悲しいことです。戦争はこれほどまでに非人間化を推進するものなのです。しかしこの事は他人事なのでしょうか。「さるべき業縁の もよおさば いかなる振る舞いもすべし」(人はだれでも縁があればどのような行いもするものだ)(歎異抄)とあります。私自身へ問いかけのでもありましょう。アメリカ人もアフガンの人々もイラクの人々も北朝鮮の人々もそして私たち日本人もすべての人間は同じように家族が存在し、日常があり笑顔があり悲しみがあり懸命に日暮らしをしているのです。自分とは異なる人間と戦っているように思わせるのが戦争であります。でも決してそうではないのです。小さな諍いから大きな戦争まで他を知ろうとしないことと、他を想像しないことがこんな事を生み出しています。戦争に勝ち負けはないのです。悲しみと復讐の連鎖だけなのです。人間のおぞましさがむき出しになる、いのちが見えなくなるそれが戦争です。