『加害者』・『被害者』

 先日の、北朝鮮への日本の首相訪問は大変大きなニュースとして報じられました。戦後50年以上も国交がなかったまさに『近くて遠い国で』ありました。とくにこの度、日本国内では『拉致』の問題に関心が高いようであります。突然『神隠し』のように家族をつれ去られ、そして残されました親、家族にしてみますとその悲しみ、怒りは想像を絶するものでありましょう。
しかもつれ去られた人達が理由もはっきりせずに《死亡》と伝えられればその悲しみの極みはどんなものでありましょうか。日本と朝鮮の近代史は悲しみに満ちあふれています。今『拉致』という言葉で被害者となっている日本・・・・・しかしいまから六十年前、『大東亜圏』という名目で植民地として併合していた朝鮮からどれだけ多くの人々が『強制連行』で家族から引き離し、日本に送り出されてきたことでしょうか。強制連行し強制労働させたその数は朝鮮人八十万人にのぼります。『拉致』と『強制連行』言葉こそ違え、残されました家族にしてみますと同じような深い傷を負う出来事であったと思われます。タコ部屋労働と言われる苛酷な状況で多くの人々が二十〜三十才ぐらいで尊い生命を失いました。『拉致』された日本の方々も現在の発表では若くして命を失っています。昨日の加害者が今日は被害者となってしまう現実を思います。
世界を見ましても、アフガンでパレスチナでアフリカで戦火は止むことはありません。
『正義の戦争』『ならず者国家』と言っても人殺しは決して正当化は出来ません。しかも今の戦争は空爆や、ミサイル戦ですので直接、加害者に被害が目には見えてはこないのです。空爆の下でどれだけ多くの人々が逃げ惑い命をおとしていっているかは見えないのです。これは加害者としての自覚さえも見失わせているようであります。ニューヨークの貿易センタービルの同時多発テロのような直接的に誰にでも見える事件であれば目をひき、そして大きな関心となり問題意識も芽生えるのですが、見えないものにはサッバリ興味さえも持たない私たちであります。
テレビ時代、映像時代、そしてインターネットと言っても、事実をそして真実を見る努力を私たちは怠ってはなりません。《真実を見る》、これは実は大変難しいことであります。それは《ジブンヲカンジョウニイレズ》の見方なのです。国のエゴ、家族のエゴ、そして私のエゴと、自身を正当化するために私たちは何でもしてしまいそうです。そのような自身を厳しく見据えることが仏の教え、仏教そのものであります。被害者と言っては騒ぎ加害者と言って糾弾する、そんなものは乗り越えてしまう世界にいきたいものです。人間の持っている悲しみ、苦しみ、そして奥深い煩悩に目を据えながら、歩むことの大切さを思います。被害者、加害者どちらにもいつでもなり得る可能性を秘めている《私》であります。『煩悩具足の凡夫・・・・まことあることなし』といつでも繰り返し私に語りながら・・・・ 仏法はよく現実離れと思われている方が多くおられますが、人生を生き抜く不動点としてもらいたいと思います。