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                  引  き  算

 イラクでの日本人、人質事件で自己責任論が語られました。人質に責任はあったのか、それとも救い出すべきは、政府の責任だとか、あちこちからいろいろなことが言われました。
 又、責任の取り方もあれこれと言われました。ところで人間は多くのことに責任をとって生きてきたでしょうか。答えは『否』としか言いようがありません。いや責任を取りきれないのが、人間の歴史だったような気がいたします。アメリカの先住民族のナバホ族の言い伝えに次の言葉があります。『自然は祖先から譲り受けたものではなく、子孫から借り受けているものである』
 私たち日本人は『先祖のおかげ』『先祖供養』などには大変敏感です。もちろん自分を生まれさせそして育ててくださった先祖の恩の大切さは言うまでもありません。しかし子孫から借りているという発想はなかなか出来ません。しかもこの借り受けているものが、時代が進めば進むほど多くそして大きくなっているようです。もう自己責任によって返せるようなものではないということです。
 子孫が当然得られるべきものが、今の私たちが使いつくし、食べつくし、そして廃棄つくしているように思えるのです。今、問題になっている年金、食料、石油、自然、すべてを今の人間が食い尽くす勢いです。すべての問題は先送りにされているように思えませんか。なんと『自己責任』バッシングのいい加減なことでしょうか。その場しのぎの対応でやってきたツケはどこかで破綻いたします。まさに『無責任』そのものです。いいとこはしっかりと取り、いやなことは先送り、子孫はたまったものではありませんね。今の人間が良ければというのは思い上がりも甚だしい事です。『川には万年先までも予約が入っていた 年ごとの増水 氾濫の予約 川神はきちんと約束を守って デルタに豊饒をもたらした それなのにあろうことかさかしらぶった人間はその約束を破壊したのだ 氾濫はもうけっこう 水量はわたしたちが調節します なんと恩知らずな 思い上がった人間たち!』【多田美智子】私たちの祖先は自然と折り合いをつけて生きてきたのです。西洋的な発想からすれば、非合理的または損な生き方なのかもしれません。
 人間は常に進歩するもの、つまり『足し算』ばかりで進んできたようです。『引き算』は後退と思い、常に足し算ばかりを考え続けて生きてきました。今その限界が見え始め効率の名の下に失ったものの大きさに気づき始めてきた時代だと思うのですが・・・・
 手先が不器用になった、人間関係が下手になった、自然に感動することが少なくなった、そして生きていることの感動がなくなってしまった、という現象があちこちで見受けられます。
 五木寛之さんの「他力」や瀬戸内寂聴さんの本が売れたり今までの足し算文化の限界に誰もが『何かおかしいぞ』と気づき始めているようです。仏教は引き算なのかもしれません。『自己責任』を取れないお粗末な私、生きていることはいただいている『いのち』ということ。そんな謙虚さこそが、人間のたくましさ、強さではないでしょうか。思い上がりを打ち砕き、そんな私をも見捨てない働きを阿弥陀如来の『本願他力』と申します。