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  ひ  ま
 
参議院選挙も終わりました。多くの主義主張の政党が誕生し、逆にこれからの日本がどうなっていくのかわかりづらい時代です。
個人的にも政党も自己主張だけは強いようですね。貧しさから立ち上がり豊かになり便利になりそして不景気になり、格差は広がり、生活状況は以前のような一億総中流ではなさそうです。正社員になれない、パート従業ばかり、仕事がないのはつらい事ですね。まだ仕事があるうちはましなのかもしれません。働きたくても働く場がないのは自分が世の中から「役立たず」とでも言われているような気持ちではないでしょうか。
 今ちょうど、日本の人口の最も多い団塊世代が定年を迎えています。定年とはいえまだまだ元気ですし、仕事がなければ体をもてあましてしまいます。仕事が忙しいときには休みたい、遊びたいと思った事でしょうが、いざ仕事がなくなると寂しい思いでないかと思います。パークゴルフ、麻雀、囲碁、趣味の会等に興じる方もいらっしゃいますが、このような余暇を過ごしても心のどこかに、虚しい思いがあるようです。私たちはどこかで煩わしい仕事をしながらも何らかの「役に立っている」思いを持ちたいのではないでしょうか。ですから退屈は人間にとって非常につらい事なのです。「ひまでいいね」、こんな言葉は失礼だと思いますが・・・
 もし私たちが健康であって一年間何もしないで「遊んで暮らせ」と言われたら、それに耐えていけるでしょうか。旅行は楽しいものですが、一年間我が家にも帰らず旅に行きっぱなしでしたらつらい事ですね。ひまというのは少しあるからこそ楽しいのです。短いからこそ満ち足りた休みということになるのです。遊びだけでは決して人間の「生きがい」にはならないのです。便利さは私たちの生活、肉体の苦痛をすっかり楽にしてくれました。歩くこともなく、水をくむこともなく労働のつらさはすっかりと軽減されすべてが機械がやってくれるようになりました。科学・文明、創意・工夫がわずかこの五十年の間に私たちの生活面を恐ろしいほどの速さで変えてくれました。しかしその中で失われたものは「はたらく」という喜びなのかもしれません。ですからひまのつぶし方さえも現実では苦しいことですね。このことは大きな喜び、大きな感動さえも失わせつつあります。水を汲みに行かなくてもひねると水が出る喜びとか、スイッチをひねると画面が動くテレビを初めて見た感動とかは今はもう味わえないのでしょうか。何もかもが便利が当たり前の世の中はつまらないのかもしれません。
来年は京都の本願寺で親鸞聖人七百五十回の遠忌法要が勤まりますが、今から五十年前には北海道から京都まで団体で二日から三日ぐらいかかったと思います。今は飛行機で朝出発し、昼には本山到着です。
 便利ですね。しかし汽車の中で熟睡も出来ず寝惚けまなこで本山に参詣した頃と、今数時間で参詣できる便利な時代とどちらが本山参詣の感動があったのでしょうか。仏法との出会いは感動との出会いです。何気なく見過ごしていることでも、実は私たちの周りには感動すべき事があるのです。先日なくなられた劇作家井上ひさしさんの言葉です。「人間は奇蹟だ」、と。
 私が人間に生まれ、そして今生きている事、このことを「人間は奇蹟だ」と感動を持って生きられたらと思うことです。