報 恩 講

 お盆が終わり、秋の収穫期の頃になりますと、浄土真宗のお寺では報恩講の季節がやってまいります。西本願寺では親鸞聖人のご命日の一月十六日まで一週間の間つとまります。浄土真宗のお寺にとりましては年間の最大の行事として勤められます。
 それは、大谷派であれ本願寺派であれ真宗の教団にとりましても昔から大切な行事として扱われております。まさに報恩講教団と言っても差し支えがないでしょう。皆様も『ほうおんこうさん』の言葉になつかしさを覚えられる方が多いのではないかと思います。
 大谷派の暁鳥敏氏は『私どもの生活は恩をうくる生活であると同時に、恩に報ゆる生活である。このことを教えてくださったのが親鸞聖人である』と、いわれました。
 親鸞聖人のご命日に報恩講を勤めるのは、恩の中にありながら、そのことに気づかない私に『気づけよ、気づけよ』と導かれた聖人のみ教えをいただくありがたさの実感にもとづいて行われてきたのです。恩という感情は何か他人にしてもらったときの感謝の感情でしょう。しかし私たちは何か目に見えたり、何か他から大きな恵みをいただいたと、わかったときにしか感謝の気持ちはわいてきません。これが凡夫と言われる私の真実でしょう。
 恩は売ることは得意でありますが、恩を受けている事については非常に鈍感であります。
 『してやった、してやった』はよく言いますが『していただいた』はなかなかでてきませんね。しかしよく考えますと、気づかずない恩が、今までどれだけあったことでしょうか。どれだけ周りに迷惑のかけ通しで私が存在したことでしょう。そのようなことに『気づけ』というのが聖人を通じて受け止めていかなければならない報恩講の意義でありましょう。ある人は自分の存在が自分の判断でとらえきれないほど、はるかな大きな縁によってささえられていると『畳の心』として教えてくださいました。「私たちは他人のことをあれこれ批判するが私たちはいつもどこに座っているのでしょう。それは畳の上です。畳は、善し悪しを言わず、誰をも支えています。そのことに目を向けてください」
 恩を報じていくとはこの『畳の心』に気づいていくことなのです。しかしこのことにはなかなか気づくことはできません。なぜなら私たちは自分勝手な心で何事も見てしまうのです。自分の都合で評価してしまうのですから物事の本質が見えてこないのです。
 蓮如聖人は聴聞の心を『何度聞いても初事として聞け』と言われましたが、それはわかったつもりでも、何時の間にやら初心を忘れ恩に対する感謝が慣れによって薄れてしまう戒めであったと思います。報恩の心は強制的にさせられるものでもありませんし、『頭を下げろ』と命令をさせられるものでもありません。恩の中にいながら恩を知らないでいる、この中からは感謝の生活などはでてきません。喜びの心などとはほど遠いところにいます。
 しかしせっかく人間として生まれてきた私たちが人間として喜びある人生を送るためにも報恩講を通じて大いなる恵みに気づいていきたいものですね。お寺ばかりでなく、あなたのご家庭でも一年一度『お正信偈』を勤めながら報恩講はいかがですか。
 ハウスはあってもホームがないと言われている日本で素晴らしい習慣だと思いますが・・・