評 論 家

 

   一億総評論家と言われてから久しくなりますが、相変わらずいやあの頃よりも増

して、評論家は増え続けているようですね。テレビ、情報通信の発達によってこれも

仕方のないこととは思いますが、国民すべてが評論家であります。本屋さんをのぞ

けば、本の洪水であります。あらゆるジャン ルそれも冊数の多さは、選ぶのに疲れ

果ててしまいます。教養社会になったのか、とも思います がそればかりでもなさそう

です。本を書かれる人が多くなったのは確かでしょうが書かれた方自ら を正当化しよ

うとして書かれている本が多いようです。特にタレント、芸能人、政治家等の暴露本

が代表選手のようです。ところがこれらの本の中身は、書かれた人自身への問が

すっぽりと抜け落 ちているようです。もっとわかりやすく言えば自分への言い訳、

そのために他を非難するようです。しかしそのような事はけっしてそれらを書かれた

人ばかりではなく、この私も同じようなものでないでしょうか。 『今時の若い者は・・・

我々の時代は・・・』と愚痴をこぼしたり、『私ばっか りがこんなに苦労をしてやった

のに・・・』と恩を着せ、自分を正当化するのに必死であります。恩は本来着せたり、

売ったりするものではないはずですよね。私たちの日々の生活はそのように『世の

ため、人のため』と、口では言いますが、腹の中にはどこか《自分の都合》が見え

隠れして いるようです。自分を良く見せたい、楽がしたい、そのためにあらゆる考え

を日々めぐらして疲れ果てているようです。しかも人間はそのような自分に気が

つかないところもあります。

今日は参議院選挙(七月二十九日)の投票日です。小泉ブームが吹き荒れた

選挙戦でありましたが、今、日本は未曾有の不景気ですね。この日本をどうするかが

争点であったようですが、国民の間 ではこの不景気は、政治の責任、銀行の責任、

企業の責任、とか様々な事を言われています。しか しそのような事の中にもこの

私もこの不景気を作った一人という自覚がまずはなされなければなら ないと思い

ます。もちろん前に述べた方々の責任がそれで逃れられるわけではありませんが・・

私たちはすっかり傍観者の気分になれてしまったのではないでしょうか。

傍観者は楽です。なぜな らお客さんだからです。責任も当事者意識もありません。

いやな仕事もしません。テレビドラマを 見ているように、あの人が悪い、あの人が

正しいと論評していればいいのですから。そうして自分 だけはおいしいところを

チャツかりと・・・仏教はそんな私を厳しく問うているのです。他を問う のではない

のです。仏教は世間的な良い暮らしをしたり、豪華な葬式を出す手段ではないの

です。 そんな虚栄心に満ちた私を木っ端みじんに打ち砕くものなのです。

《悲しきかな 愚禿鸞 愛欲の広海に沈没し 名利の大山に迷惑して 定聚の数に

入ることを喜ばず 真証の証に近くことを快し まざることを恥ずべし 傷むべし》

(この親鸞は愛欲の心から離れられず、又名誉や、地位に惑っ ている悲しい者

です、仏様の心に背き続けている恥ずかしい私であります)

この親鸞聖人の自分への厳しい問いかけこそが今の《私》に求められてはいないで

しょうか。 

しか もそのことこそがじつは《私》のもっとも人間として充実しての生き方だと・・・・

いつまでも他人事としての評論家ではねぇ・・・・