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生かされる
 
俳優の火野正平さんが全国を自転車で視聴者の手紙を読みながら思い出の場所を巡る「心旅(たび)」という番組があります。火野さん本人のキャラクターもありますが面白い快い番組です。
 登り坂のしんどさをハァハァぼやきながら頑張る姿や、美しい女性に声をかけられ照れるところなどが好評のようで、もう五〜六年にもなる長寿番組になってきました。この番組の事を書かれた火野さんのエッセイ「人生下り坂最高!」に【まわりから「頑張って、頑張って」と言われ続けるよりも・・・・ほかの人に「頑張って」と言うほうが力になったのかもしれない】とありました。震災後数年経って東北の被災地を回って、応援をするつもりでしたが反対に応援されて「逆やんけ!」と、とまどいます。ひとは確かに他者に見守られて力を振り絞ることが出(で)来(き)るものなでしょう。しかし見守られてという受け身ばかりでなく誰かを案じ考え続けることでも支え力を発揮出来るようです。よくスポーツ選手や芸能人の方々が、「元気を届けたい」とか、「勇気を上げたい」、と言われますがいつも私は違和感を感じていました。
 それは逆ではないかと思います。勇気をもらい、元気をいただいているのは応援されて頑張っているいる方ではないかと感じるのです。夢と希望を与える仕事などと思うのは、驕りだということをどっかに持っているべきでしょう。政治の世界もそうですね。与える事ばかりの主張です。そうしなければ、当選はおぼつかないのかもしれません。当選しますと与えているとばかりと思うのでしょうか、えらい先生になるようですね。仏教の迷いの根本は「我が身びいき」です。それは「我執」と呼ばれます。この「我」という字は左が手で右が戈(武器)で、人間が刃物を握っている状態です。人と人とが相互に支え合うような状態ではありません。
「ワシがオレが」ばかりではどうでしょうか。妙好人足利源佐さんは「我に"こそ"をつけずに"こそ"は人様なら"こそ"とつけるように」と平生より話されています。自分をよく知り見られている事ですね。今はそのことを忘れ勘違いをされている方が多いように思います。「お父さん」という小学校五年生の子供の作文です。【私は生きるために生まれてきた 親に怒られるために生まれてきたんじゃない 親っていうのは木の上に立って見るって書くんだよね お父さんは木の上に立っていない 子供の上に立っている】鋭い観察眼ですね。育児の問題があれやこれや言われますが大人は子供より先ずは自分自身の「育自」が問われているのです。
 今の日本は何事も経済中心に動いています。政治も仕事も教育もです。どうすれば儲かるか。世界に負けない日本になるか、科学技術が伸びなければ日本は置いてきぼりにされてしまう恐怖心が蔓延しています。あらゆることに日本が一番を目指しています。
 ある国会議員が二番でも良いと言いますと非難囂々でした。経済を豊かにする教育が中心となり、小、中学校では理科教育が大切であり、大学では文化系は必要のないことまでも言われます。心豊かに育てる教育の原点はどこに行ったのか! 仏教はうまく生きるためのものではありません。意味ある人生、真実の価値を求めていくものです。ウルグアイの世界一貧しい大統領といわれたムヒカ氏、国民幸福度を指針としているブータン国、これらがブームになることに「生かされる」と言う日本人がかっては持っていたものがあるようです。