生きる理由、死ぬ理由
     

先日、御門徒の方からお手紙をいただきました。その内容は次のような事でした。
《私は昨年『死ぬ理由もないけれど、生きる理由もない。しいて言えば疲れた』と
言うメモを残してマンションから飛び降り死亡した女子高校生の事件に対して
どうしも答えが見いだせない》というものでした。
この方は自身四十年の教職経験をもっておられます。長年教育者として奉職せら
れておりながら自身の答えが見いだせず、悩んでおられます。自身に厳しく素直
な方であります。
『何も死ななくてもよいのに』とか『生きていればなんとかなったのに』とか私たちは
非難、また意見を言いますが、はたしてこの女子高校生の問いに何と皆様は答える
でしょうか。その手紙にはある高校生の新聞への投書も同封されておりました。
《この世界は生まれ、育ち、死ぬという繰り返しだ。この繰り返しの中で私はなぜ
生きているのかと、最近考える。なぜこの世に生まれ、生きるのか、私は知りたい。
・・・・・・書物を読むとそれらしい答えはあるのだが出来過ぎているようで納得が
いかない。もしかしたら『なぜ生きているのか』ということを考えるために生きている
のかもしれない》年齢、性別にかかわりなく、人間の永遠の切実な問題です。 
私も答えが見つかりません。
『二つとないいのちだから』最初に返ってきそうな答えです。『かけがえのない
いのち』『かわることのできないいのち』ともよく言われます。しかし現代はクローン
技術、遺伝子操作、又臓器移植等、代わりうるいのちの現実を見せつけています。
まさにこの《死ぬ理由、生きる理由》はいのちそのものへの問いかけでありましょう。
しかし代わりうるいのちと言いましてもそれはあくまで強者が生き延びる現実があり
ます。例えば、心臓移植にしましても最初の一例から二十例まではすべて、黒人
から、白人への移植であったという現実です。腎臓を売買する商人も存在します。
いのちの差別化が平然とおこなわれている社会に《生きる理由》を問うても、返事は
でません。弱者であれ強者であれ、いのちは平等なはずです。そのいのちは何かの
ための手段ではなくいのちは、それ自身が目的ではないでしょうか。
いのちはいのち自身を生きるためにあると言うことです。民族のため、国のため、
経済のため、政治のため、いろいろな理由付けをしていのちをむなしくされた方々を
思うのです。しかしどんな理由づけをしても《いのちの尊さ》を説くならばなぜその
いのちを〜のためとむなしくするのでしょうか。〜のほうがこれでは大切になって
しまいますよね。いのちはいのち自身を成就するために生きていると言ってもいい
でしょう。そしてそのいのちは無条件に尊重されなければなりません。
私も、あなたも。そういういのちに目覚めることこそが仏教の原点なはずです。
釈尊の誕生の偈『天上天下唯我独尊(まさに一人一人がたいせつないのちを生
きている)』という人間の原点をあらわした仏教の人権宣言だったはずです。
だれのものでもない、なにかのためのものでもない、比べる必要のない、いのち
そのものの尊厳は二十一世紀に生きる私たちの大きな課題のようですね。