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                 意味を見る目

 台風直撃、それに伴う水害、そして崖崩れ、新潟地震、世界に目を向ければ、イラク、アフガンそしてパレスチナ、コソボと悲しい出来事が多かった一年のような気がします。自然の脅威や戦争ばかりでなく身近にも、教育、介護、年金、失業等、問題は山積しています。その中で人間の欲望だけは変わりなく果てしない方向に突き進んでいるように思えます。自然を美化するつもりはありません。自然とは美しい反面、恐ろしさを併せ持っています。人間が自然と闘いながら技術が発達してきたことは確かでしょう。スィッチ一つで夏涼しく、冬暖かい生活を満喫し、夜の暗闇をも、昼間のようにしてしまう文明を手に入れました。自然の気まぐれに左右されない生活が出来るようにもなりました。しかしこのことが人間を幸福に導いたかと申しますと、疑問を持たざるを得ません。便利さと、幸福は違っているように思えるのです。そのことを、同じように考えたのが、人間の犯した大きな誤りだったのではないのでしょうか。本来人間のものの見方には二通りあります。一つには価値を見る見方もう一つは意味を見る見方です。価値をみる見方というのは値打ちがあるかどうかということです。それは役に立つか、お金に換算すればどのくらいかということです。そこにはか価値の高いものは大事にし、価値のないものは捨てていく世界です。すべてお金に換算できるものであり、割り切った世界でもあります。もう一つの見方、意味を見るというのはどのようなことでしょう。
 皆様には古びた、お金に換算すれば0円に近いものを大切に持ってはおられませんでしょうか。それは親から受け継いだ大切なものであったり、どんなに古びたものであっても、思い出の多いものは捨てられませんね。それが意味を見るという見方なのです。他人からはバカげたことのように思われても、そのものの価値ではないその中にこもっている意味をそこでは見ているからなのです。教育の世界で今行われているのはどうもこの意味を見ることを教えていないのではないかと思うのです。ものに囲まれものを中心に生活が回っているのが今の私たちの生活のようです。そこにはそのものにこもっている意味を見いだしていこうとすることはなされず、ただ「金さえあれば」の論理です。「自然の恵み」とはよく言われますがこの言葉の意味さえもよくわからなくなってきているようです。刺身一切れに大海の自然に思いをいたし、大根一切れに土の香り、太陽の恵みを感じる事が出来るかということです。私たちは食材でも、何でも、ただ金さえ払えば手に入れる事の出来るものとしか見えない社会を造ってしまったのかもしれませんね。意味を見る目がすっかりと退化してしまった人間が行き着く先は、果てしない欲望に駆られ自然を壊し続け、その先どのようになるかの想像力も働かなくなり、その行為は加速度的に進んでいくでしょう。最後には自然ではなく人間そのものの破壊が始まっていくのでしょうか。
 仏教はこの意味を見る目を与えてくださるものであります。人間のこの意味を見る目がないと本当の幸福はやってはきません。それと共に損得勘定ばかりで生きている私に「本当の幸福は何か」という事を示し続けてくださいます。幸福を感じる意味を見る目を持ちたいものですね。