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自分自身
 今の私たちは、何でもわかったつもりになっています。時代の最先端で活躍し、多くの収入を得て便利な文明に囲まれて、手に入らないものは何もないような暮らしをされておられる方もいますね。天敵もなく怖いもの知らずです。その中で思い通りにならないものがあります。
 それは「自分自身」です。一番近くおりながら一番見がたいものが私自身です。自分で自分を見ることが出来ませんので無理もないことなのでしょう。まったくどうしようもない、わけのわからないものが自分自身です。私たちは子どもの時から多くのものを学び知識は豊富です。 処世術とか世渡り術も学びました。経験を積み競争社会を生き抜くすべも巧みになっていると思います。他を批評することにも長けています。「あの人は良い人、この人は悪い人」「あの人は立派。この人は駄目」などとは平気です。しかしそこには自分自身がいないのです。
 自分自身は外から見ている傍観者であり評論家です。いつでも自身は安全な場に身を置きずる賢く立ち回るのです。たまに自身が非難されますと「私ではない、私の何が悪い」とあわてふためき、弁解や責任転嫁などは平気で行います。どうやら私たちは他人をまな板に乗せて切り刻みほじくり出すのは楽しいことなのでしょうね。自身が切り刻まれることは夢にも思っていないのでしょう。それは自身が全く見えていないということなのです。
 自分が見えていないと言うことは、自分の歩んでいる道も見えていないと言うことです。
 挫折も知らずにこの世の春を謳歌してもそのまま行かないのが人生です。いったん何かが起きて上手く行かなくなったときに「こんなはずでなかった」と嘆いてももう遅いのです。
 挫折はそのような意味からも早く経験した方が良いと思います。
 早く立ち直れる機会や、他人の気持ちの悲しさも見えると思います。しかし今は子どもの時から苦労をしない、させないことに親も必死です。子どもの進路に走り易いレールを敷いて転ばないように、大切に大切に壊れ物を扱うような育て方をよく見ます。ナイフの扱いを間違って手を切ってもメーカーが訴えられる時代ですから造る方も大変ですね。不注意ではなくて、手を切るナイフが悪いと言うことなのでしょうか。お釈迦様は「人は生まれ、老い、病に倒れ、そして死を迎える」という生老病死の理を説かれたのが仏教の出発です。
「そんなことは当たり前だ、子どもでも知っている」と言われると思います。しかし誰でも知っている事を自分のこととは思えないのです。我が身の事実として受け止めれない私たちであります。仏教の迷いはこのような事を言うのです。
 迷いの根本は「我が身びいき」そのものです。老人や、病者を見れば「かわいそう、気の毒に」そのように思っている自身が迷いのまっただ中にあるのです。いつまでも若さを保つためのアンチエージング、サプリメント、健康法などがテレビを見れば盛んに喧伝されますね。老病死を受け止めるのではなく、何とか逃げようとしてばかりいます。仏教はこのことを真っ正面から受け止め、その中にこそ老病死から学ぶべき事を伝えようとしているのです。
 傍観者、評論家の立場を離れ、自身を仏法と言うまな板の上に乗ってみませんか。新たに見えないものが見えてくる世界があると思いますが・・・・