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                           時代の空気
 
今、この日本を覆っている何か重苦しい閉塞感に、やり場のない空気が漂っているようです。
秋葉原の事件、岩手・宮城の地震災害、全体的に暗い雰囲気ですね。私達日本人は歴史的に長い間、島国の特性なのか、回りの顔色をうかがい、「長いものにはまかれる」「寄らば大樹の陰」、というような生き方をしてきたようです。評論家の山本七平氏は「空気とは非常に強固で、ほぼ絶対的な支配力を持つ判断の基準であり、それに抵抗するものを異端として「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力を持つ超能力である」とまで述べられています。
 この空気に対する思いは以前より一人一人が勝手に生活しているようで、逆に意外と従順になっているように思われます。「K・Y」等が流行語になりましたがこれは空気の読めない人ということになるようです。そのくらい今の人たちは空気に敏感です。ここから外れることは社会的に抹殺されるような思いになります。しかしこの事が逆に前記しましたように、重苦しい空気の原因になってはいないでしょうか。会合などでも「円満に」という名の下に、根回し、腹芸が平然と行われ、異端を徹底的に排除するのです。このことに私達は会合などでエネルギーを費やしているようですね。「他人から変わった人と見られたくない」「本音を隠してよい子ぶる」状況がそこかしこで見られます。自分の本音を隠して、「付和雷同」しつつ生きている「私」ではないでしょうか。しかし実はこの「勇気」のなさ「臆病」が、今様々な問題を起こしているように思えるのです。いじめ、差別、排除、全てはこのことから出発しているようです。
 いじめる子、いじめられる子、差別者、被差別者などと当事者のみを問題にいたしますが、最も問題なのは、それらのことを知りつつも「付和雷同」しながら外側から面白がって見ている傍観者の方が罪深いと思います。そしてその姿こそがこの「私」そのものであります。虐げられている人に寄り添うだけでどれだけそれらの人々の力になるでしょう。しかし「そんなことしたってどうしょうもない」、「そんなこと自分に損だ」「所詮、我が身が可愛いから」等と言い訳しながら、いじめや、差別に加担しているのです。直接行う加害者以上に見て見ぬふりをする悪質さでありましょう。その人達は他人の気持ちのわかる「良い人」であり「思いやり」「やさしさ」をよく理解はしているのです。しかしわかっていても戦う勇気はありません。何かをすれば「責任」をとらなければなりませんし、「火の粉」も浴びるのです。いじめや差別で他人が死んだら「可愛そうに」と涙するでしょう。しかし、錯覚してはいけないのです。
その人達は加害者なのです。しかも責任を免れている最も悪質な加害者なのです。しかもその事に気づかないふりまでしているのです。その事に対しテレビやマスコミが、又後押しまでしてくれるのです。テレビに出てくるコメンティターと言われる人の悪質な責任のなさ、そしてその言葉に流される私達、「漂流者」のようです。来年からは裁判員制度がスタートします。空気で裁かれる危険性を感じます。今、秋葉原の十七人の殺傷事件が騒がれていますが、その事件の原因の根っこにはこの空気があるように思えます。仏法を聞くのは、真実の私を訪ねることです。空気に押し流されている「私」の真実を仏法に聞きませんか。辛いかもしれません。苦しいことかもしれません。しかしその事が人間として最も大切なことを仏法は教えます。