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自 我

 今の時代は、人間尊重主義といいますか、個の確立が言われます。戦前は個を押し殺し、赤紙一枚で国のため、天皇のためという名目で命さえも投げ出した事でした。その反動なのか戦後は自我を主張する時代になりました。自分大切は結構なことなのかもしれませんが、何事も行き過ぎ、度を超すのはどうなのでしょうか。救急車の出動がこの十年で百万人増加いたしました。一年間で約二百五十万が利用し、本当に救急で必要な人はその半分だったと言います。
「夫婦げんかでどうにもならなくなったので救急車を呼んだ」「夕飯の準備に忙しいので子供を病院に連れて行ってほしい」「車がないので病院に送って欲しい」「○月○日病院に行くので迎えに来て欲しい」と予約までする人、消防署の人も大変ですね。病院への要求、学校への身勝手な要求、このようなことは日常茶飯事です。自分は何でも正しく、悪かったり、誤ったりするのはすべて他の責任ということでしょうか。とにかく権利の主張は強くなっていますね。無茶苦茶と思っても現実はそんなことが行われているのです。しかもそのことに対して当然と思っています。学校に抗議するのは子供を守る親の権利として当然の権利、それを受け入れるのは学校の義務、病院に要求するのは患者の権利、救急車をすぐに呼ぶのは市民の権利、商品にクレームをつけるのは消費者の権利です。それと共に個性の大切さ、自己の確立、自分探しなどと、流行になりました。個性の大切なのは認めるにしてもそのことは、他の個性も尊重しなければなりません。しかしそのことは置き去りにされ自分の権利のみを主張するようですね。
 理不尽な事に対して権利を主張するのは当然な事でありますが、理不尽な権利の主張が為されているようですね。これはその人の幼児化を意味していると思います。人間は赤ん坊の時には「見られる自分」ではなく「見る自分しか」わからないと言います。それが成長と共に「見られる自分」を、意識するようになり「恥ずかしい」とか「はにかみ」等という情緒を生み出していきます。今はこのことをすっかりと忘れているような時代です。人前で化粧する、男女がイチャイチャする、エッチなグラビア雑誌を車内で平気で見る人等、廻りに人がいないかのように振る舞います。すべてに共通するのは「見られる自分」の感覚がないということでしょう。「今時の若者は」とも言いますが、立派な大人も傍若無人の振る舞いも見られますね。字のごとく「傍らに人がいない振る舞い」です。他の動物は鏡を持ちません。人間だけが鏡を持ってる動物であるにも関わらずいつのまにやら鏡を捨ててしまったようですね。顔を見る鏡は何時間でも見るのに自分自身の心とか行為を映す鏡は持っていないようです。自我と自分勝手は違うと思います。自我は宗教的、内省的な意味を含んでいます。私たちは鏡を持っているでしょうか。それはひょつとすると自分勝手な鏡なのかもしれません。本来の鏡は私の真実を映すものでなければなりません。仏教の教えが鏡であり、念仏が鏡であってほしいのです。
 それは厳しいものであるかもしれません。つらいことなのかもしれません。
 しかし人間が人間になるためには、この鏡がなければならないのです。
 自我の本来の確立はここが出発点でありましょう。それは自我があり、それに執着すると我執となりそのことも知らずに生きている私を知らされる道でもあります。