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                 慈 悲 心                     
 定額給付金が話題になっています。国民一人あたり一律一万二千円、国が配布してくれるのです。「さもしい」とか「矜持」とか、麻生首相も追求され、どうなることなのか。ところで、テレビの時代劇などを見てますと、「お慈悲でございます、とうぞお許し下さい」とか「お上にもお慈悲はある」とか、「慈悲」という言葉がよく使われます。時代劇の決まり文句のようなものですね。今、日本は不況の嵐のまっただ中、リストラ、派遣社員、季節労働、解雇、格差社会、貧困、こんな言葉が連日、新聞、テレビで塗り固められています。今年は二千九年問題とかで自殺者五万人とかいう話もまことしやかに伝えられます。そんな中で「給付金」は、お上の「お慈悲」なのでしょうか。今、豊かな慈悲のある政治か行われているでしょうか。「勝ち組」「負け組」そして「自己責任論」と勝者を讃えることばかりが優先されてきたように思えるのです。その勝者が与えてくれる恩恵を「慈悲」と言うのでしょうか。慈悲と恩恵は違うのです。 それが長い間同一視されてきました。恩恵は上から下へ押しつけ与えることを言うのです。 封建制の影響か、虐げられてきた人々の劣等意識からかそのような事を慈悲と曲解していたのです。仏教の「慈悲は」そのような事ではなく、与える人、与えられる人が、同列の平等の立場であります。下り向きへの恩恵とは異なっているのです。「慈」と訳された梵語の「マイトレーヤ」と言う言葉には「友情」と言う意味があります。それは特定の友人をさす言葉ではなく、全ての人々の幸せを願う心情であり、そこには今、遠く見知らぬ名も知らぬ飢餓に苦しみ又戦争に苦しむ人々、そして広くはあらゆるいのちあるすべてのものへの思いそして友情でありましょう。「悲」という言葉は「カルナー」の訳です。この言葉は「同悲同苦」の意味であり、同じ悲しみ同じ苦しみを分かちあってその悲しみ苦しみを解決していく努力であります。
 慈も悲もどちらも現代風に言えば「愛」ということなのかもしれません。しかしその愛が「偏愛」になったり「与えてやった」という傲慢さになっては困るのです。仏法の歩みは智慧がともなわなくてはならないのです。「学仏大悲心」という経典の言葉があります。仏法を学び実践していくのはこの「慈悲心」だというのです。「仏心とは大悲心これなり」なのです。どうでしょうか、私達にこのようなことが出来るでしょうか、たいへん困難な道ですね。仏様でも大変なのに凡夫の私がと思いますと気が遠くなってしまいます。現実の私の生活ぶりはどうでしょうか。「与えてやった」「俺が苦労してここまでなつた」とか、特に成功者と呼ばれる方にはこんな思いの傲慢さがどこかに潜んでいるような気がしてなりません。「慈悲は上から」という諺があるそうですが、仏教の心が誤って受け止められ、しかも権力者のいいように作られた諺でありましょう。定額給付金に自分のお金を使って「盛大に消費してもらう」、こんな言葉が今の日本の最高権力者から出てくる恥ずかしさを私達は感じ取ってもいいのではないでしょうか。
 質素・倹約という美徳はどこに消えたのか、ただ景気、景気のかけ声ばかりで、人間としての本当の矜持を思います。世の常識、必ずしも人生の常識ではありません。
 今の私達には等身大の生き方が求められています。慈悲心をを持ちながらもそれを、なかなか実践しきれない私を恥じつつ深く見つめつつ・・・・・